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那賀都神社の狛犬さんと国師が岳(山梨百名山17)

2009.07.20 15:27  投稿者:ootaminoru

山梨市三富の大嶽山那賀都神社の狛犬さんです。
写真1と2がそれです。

写真3は山梨市の大井窪八幡神社に奉納されている木造の狛犬さんです。
山梨県の有形文化財です。昭和60年8月登録。
大井窪八幡神社は貞観元年(859年)清和天皇の勅願によって笛吹川の川中島の大井俣に創建されています。その後、源義家、義光が奥羽の前九年の役で戦いますが弟の新羅三郎義光が帰り道に現在の窪地区に移転したものです。凡そ1062年頃です。武力の神様です。

その大井窪八幡神社は九州の宇佐八幡神社を勧請したものと言われています。創建の川中島の大井俣の八幡神社は甲斐源氏が山梨に入ってくる以前のものです。山梨を司る国司若しくは在管人によって建設されたものでしょう。

時代は下がります。
後年、武田晴信が天文10年(1548年)信州侵略の時期に村上義清によって敗れました。その戦いで腹心の板垣と甘利を失います。その同年に武運長久、国土豊饒、社壇安穏を祈願してこの狛犬さんを晴信が寄進奉納しています。
戦いの前に奉納して戦勝を祈願したが戦に負けたと解釈するのが妥当でしょうか。

製作者の名前と年号が台座の裏に記録されているそうで永禄8年(1565年)彩色。永禄11年(1568年)玉眼を入れたそうです。薩摩の林可の策だそうです。檜寄木造り。

写真1,2,3は似ているように思います。
古い時代のもの、叉は古い時代のデザインを採用した大嶽山那賀神社の狛犬さん1と2だと思います。年号は入っていません。

この付近には沢山の名所旧跡があります。放光寺、恵林寺、川浦口留番所跡、三富川浦温泉(山県三郎兵衛門昌景=飯部兵部部の墓)、お伊勢の宮、窪八幡神社、室伏学校(明治8年)などです。

大嶺山那賀都神社もなかなか個性的な神社です。
奥宮は国師が岳です。
ヤマトタケルノミコトに縁を持つ山岳信仰の神社です。
山梨県から雁坂峠を越えて秩父地方にはヤマトタケルノミコトが通ったと言われる場所が多いです。酒折の宮もその一つです。
大嶺山那賀都神社は広瀬湖に近い三富の笛吹川の上流で乾徳山、黒金山を越えて登山道を登ると奥千丈岳の尾根を経て国師が岳に行きます。

祭神は大山ズミの神(山ノ神)、大雷の神(オオイカズチノカミ)、高岡の神(タカオカノカミ)です。
江戸時代初期に何らかの理由により神社が大破したので羽黒山信仰一門に入り財を得て再建を果たしたと掲示板に書かれていました。
叉江戸末期から明治初年に篤志家の援助を受けて改築や増築が行なわれて現在の神社の建築になっています。江戸初期の中興の祖が何故、東北の山岳信仰羽黒山なのか?不思議でなりません。
何故関東を代表する金峰山信仰(吉野熊野の蔵王権現)ではいけなかったのでしょうか。

奥宮は国師が岳です。その里宮になっています。
国師が嶽は金峰山と近く尾根続きです。約2時間強で難なく行ける場所です。
金峰山もヤマトタケルノミコトに縁を持ちます。
同じ山域でありながら、どうして習合しなかったのか不思議に思います。習合しないほうが不自然に思います。
山岳信仰はそもそも自然崇拝のアミニズムに起源を持ちますが時代が下がると吉野熊野そして三輪山に組織的な聖地を持ちます。
ですから同じ系列だと思うのですが、世俗の縄張り争いでしょうか。
神様も金銭には汚いらしい。下賤の私はそのように思ってしまいます。
平成21年7月3日


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