海岸寺の石仏
2009.08.03 16:01 投稿者:ootaminoru

北杜市上津金の海岸寺の石仏
この寺には高遠の石工、守屋貞治が刻んだ100体?の観音菩薩石造仏があります。
中世、そして近世において木製や石製の仏は低く見られていた。
その中で形式化せず自由奔放に仏の姿を刻んだものとして
①山梨県の木喰明満
②美濃の円空
③信州高遠の石仏
があります。
何れも山深い関東甲信越から従来の因習に捕らわれない作品を創造した。
何処にそんな創造的な力や感覚が備わっていたのだろうか。
その中で高遠の石工に依る石仏で際立った存在が守屋貞治の作風であり、従来の古典的な仏教の作風を継承しながらも形式化せずに精神美を石に表現した。
叉別な石仏群の見方をすれば
①万治の石仏
②信州麻績の修那羅安宮の石造仏群
③信州安曇野の双体道祖神
④高遠の石工、守屋貞治の石仏
に近世の芸術性や精神文化を育む石仏表現の場が花開いた。
海岸寺は臨済宗妙心寺派の寺です。本尊は釈迦如来でしょうが、観音堂には木造千手観音菩薩です。
国宝でしたが昭和6年に盗難にあって現在はお留守だそうです。
その昭和6年当時に既に国宝になるくらいだから、かなり古い年代のものらしい。写真も何も残っていないのだそうです。
1368年から1373年まで鎌倉の建長寺住持を務めた後に請われて石室善政和尚を招いて臨済宗に改めて海岸寺とした。
南北朝の石室善政を開山すると、甲斐国志、寺記にあるようです。
その前は、恐らく観音菩薩信仰から真言宗などの密教系の寺であったと推測されます。更に寺伝に依ると養老年間に行基が開創したと言います。古い縁期を持つ寺のようです。何度か改宗したものと思われます。
どうしてそんな古い縁期を持つ寺が須玉の津金に?
武田軍団の時代は津金衆として北辺の防御に活躍するが武田信虎信や信玄に特別縁故にしてもらったけいせきは無いし。
叉武田氏の先祖、逸見氏の古城や見張り台、菩提寺と仮説も考えられようがハッキリしないらしい。
旧津金学校のあるその地は江戸時代諏訪明神境内であり、更にその昔は古宮城跡です。その近くの津金地域を守る砦のような山城や要害の地として源田太ヶ城跡、そしてその麓の海岸寺は信州佐久往還の通路であり、北の守りの拠点として関所のような機能を古い時代から持っていたであろうと思われ、規模から鎌倉室町期の地域の豪族の居城や砦である説が考えられるが豪族としては規模が大きすぎる。叉、北巨摩全域を包含する逸見氏の居城や防衛施設である仮説が出されるが貧弱すぎる。
この海岸寺を有名にしている一つに江戸時代中期から後期にかけての信州高遠藩の石工、守屋貞治による約100体の観音菩薩石像があります。
彼は明和2年(1765年)に生まれて天命3年(1832年)没しています。信州の駒ヶ根、山梨県、静岡県、神奈川県などに旅稼ぎして生涯340体の石仏を彫ったと言われています。
もしこの海岸寺に守屋貞治の石仏をその当時の桃渓和尚が石仏制作の依頼を出していなければ、現在の海岸寺の名声は大きく異なるであろう。
江戸時代半ば以降、社寺参詣が庶民大衆の間で流行しました。
西国巡礼、板東巡礼、秩父何十三箇所巡礼などもその一つです。
この海岸寺は甲斐の国三十三番観音巡礼の第13番目で甲州八十八箇所霊場の第48番札所でもある。この時期、石仏、石塔、石碑が大量に寺院仏閣に造立された。
需要と供給の高揚する時期に機敏に高遠石工集団の中でも際立った存在の守屋貞治に依頼し寺運を掛けたものと思う。
寺や神社も人気商売。俗っぽい話しになりますが、その時代の経営者の感覚や手腕が歴史を左右する。
そんな代表例だと思う。
日本を代表する江戸時代の仏教美術、石仏の極み作品が山梨県に100体余も存在する。大切にしたい。
写真1は十一面千手観音菩薩
写真2は馬頭観音菩薩です。西国三十三観音の29番、兵庫県の舞鶴市
青葉山松尾寺のご本尊です。その写しです。
写真3は守屋貞治の石仏群です。


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