吉田口登山道(その1)
2009.09.04 15:40 投稿者:yosidaguti

吉田口登山道は富士吉田の国道139号線にある北口本宮富士浅間神社(省略して北口浅間神社と以下、称する)が基点になります。
現在は富士吉田市役所が富士山登山競争の基点となっていますが江戸時代は上吉田の金鳥居が基点だったようです。それは金鳥居に改め場があり入山料(山役銭)を徴収して切手を発行していたようです。その切手を受け取って先達に引率されて宿舎となる御師の家に向いました。
多くの場合は予め連絡が先達と御師の間で取れていて、富士講の一行を金鳥居で御師の案内人が出迎えていたようです。
フリーの客以外は既に富士講別に専属の宿舎となる御師の家が決まっていたので客引きはしませんでした。この御師からの出迎えは一般の宿場町の客引きとは異なり全て男性でした。
神聖な宗教行事の入り口で穢れた女性(私が言っているのではありません。)に案内されることはあり得ませんでした。
当時の儒学の思想?で女性は全て穢れていると思われていたようです。
余談ですが私は女性は穢れているとは思いませんが魔物だと思う節があります。
男を惑わすからです。女の微笑と涙は魔物です。冷静ではいられないからです。
仏教も女性を蔑視した考えがあるように思いますが、それは釈迦が男性だったから、女性を遠ざけたのではないかと思っています。
皮肉なことにその女性蔑視の考えや職業や身分の貴賎を撤廃する思想が富士講の中興の祖、身録にありました。
自由平等精神を謳っていました。ですから江戸や関八州の庶民に爆発的に持てはやされた一因だったのでしょう。
女性が既に幕末、富士山の頂上に登っています。
北口浅間神社の杜を歩き、中の茶屋~大石小屋~馬返しを経て一合目~二合目~三合目~四合目~五合目の中宮役場と登り現在営業している佐藤小屋、星観荘を経て経ヶ岳で森林限界に出て六合目でスバルラインからの河口湖道と合流します。
この古道吉田口登山道を現在でも北口浅間神社から歩いて頂上まで登る人がかなり多いです。
その多くは外国人です。
叉、富士吉田市及び吉田市民は自分達の史跡と文化と歴史を現在に繋げる為に富士登山マラソンなども行なわれていまして生きた登山道です。
この前、NHKのテレビを見ていたら富士吉田市の小学生を北口浅間神社から六合目まで歩かせる遠足の模様を報道していました。そうした取組みを地元富士吉田教育委員会は行なっているようです。
それから富士吉田にある北口浅間神社の名称は南口浅間神社(静岡県富士宮の富士浅間神社)に対する北口の名称です。ですが、その昔は山梨県側には河口浅間神社や御室浅間神社が河口湖の北岸と南岸にあり夫々その浅間神社から頂上への登山道が別にあったはずです。
例えば河口浅間神社からの登山道は舟津口登山道だった訳です。
ですが、それは江戸時代の1700年頃の富士講が栄える以前の時代のもので富士講の盛んになる頃は実質的に吉田口登山道の北口浅間神社を経由して、叉は途中の中の茶屋で合流して吉田口を登ったと思われます。
ですから、山梨県側の登山口として静岡県の南口に対して集中的に北口登山道の基点として北口浅間神社と呼ばれるようになった様です。
スバルライン開通後は営業が成立しなく各合目には廃墟になりかけた茶店屋や山小屋や石碑や社が今も残っています。
叉簡単な説明案内板が設置されていて史跡案内に従って歩くことは楽しく飽きません。
7月13日に北口浅間神社に御参りして馬返しから歩いて六合目まで行って来ました。
ここの登山道は現在も人の往来する、道として生きた道です。
道は整備されていて案内表示も完備しています。
それに日蓮の登った経ヶ嶽が六合目にあることからも中世の修験道の時代から登られたルートであり、時代は近世に下がり元禄時代即ち1700年以降、江戸から内藤新宿に入り甲州街道を経て谷戸街道から下吉田に入り甲斐の国への富士講登山道として最も栄えた富士登山道でした。実に300年、富士河口町を基点とするスバルラインが出来る以前の昭和39年まではこのルートが甲斐の国の富士山の玄関であり富士吉田の街を支え繁栄させた金蔓(観光拠点)でした。
現在の富士吉田市は過去の栄光と経済的繁栄、プライドにかけて、叉現在そして未来の富士吉田の観光にかける生業の源として北口浅間神社からの吉田口登山道の往来を死守する思想が流れているだろう。
この往来が途絶える事は形骸化が始まり形式化して死(無)を意味します。
夏山山開き、閉山式、吉田の火祭りなどなど地域社会の人に支えられ伝統をしっかり守る底力が備わっていると思います。その地域社会に支えられた思想が文化であり、それが観光で最も大切な原点だと思います。
観光とは最終的には地域の人だろうと思います。
観光が地域の人であるとするするならば、富士山は山梨県の宝だと思うのであれば、この道を山梨県人は一度は歩かなくして「富士山及び富士登山を語るなかれ」と言いたい。誇大妄想で相すみません。
そんな力みがあって返ってブログ掲載が遅くなってしまいました。
写真も沢山撮って来ています。
富士山のふもとの繁栄は富士登山にあります。
写真1は吉田口一合目です。
一合目は富士山入り口なので仏教で最も大切な大日如来堂がありました。
写真2は吉田口二合目の山小屋です。この裏に鳴沢の富士御室浅間神社の本宮があります。
現在は管理上の問題で河口湖湖畔の里宮の富士御室神社に社を移していますが言い伝えに依りますと富士山麓の浅間神社の中で最も古く造営された社だそうです。この吉田口二合目の地籍は現在は富士吉田市ですが本宮の富士浅間神社のある場所は飛び地で鳴沢村地籍になっています。
昔はこの一体は鳴沢村地籍だったのでしょうか。
その昔、鳴沢村、河口湖湖畔の御室浅間神社の登山道は二合目で現在の吉田口登山道に合流していたと推測します。
写真3は吉田口五合目の山小屋です。未だ樹海の中です。
吉田口五合目は中宮役場と言って入山料金を取った関所みたいなものがありました。時代が下がりますと金鳥居で山役銭を取り切手をもらってここで切手を検閲する場所となりました。
ここは山小屋が四軒ありました。夫々中宮社として浅間、大日堂、稲荷堂が祭られていました。
山役銭徴集場はこの他に馬返の上にもありました。
全て神罹っていて、新田次郎の小説では、ある時代は一つの登山道で最高4箇所で徴集していたと書かれています。叉頂上でも火口に向って銭を播く様に始動したようです。それを登山道どうしの利権者が銭の分配や既得権などで諍いが度々起ったようです。
小説なので本当かどうか判りません。検証していませんが、、、。
他地域からの観光者を神罹りにかけて銭をふんだくる銭儲けの場が富士山の場であり、先達、御師、強力、神官関係者がリンクして銭儲けに走る亡者が観光業だったきらいがあります。そうした伝統でしょうか?
以来地元の利権者以外の人は富士に冷徹で登山をあまりしないようです。
富士山は地元の人にとって銭儲けの場に過ぎないからでしょう。
それを食行身録は嫌った。呪術を否定して教義を観念楯で抽象的なものから解かり易く具体的なものにした。その思想を後継者が受け継いだ。
食行(じきぎょう)身録とは乞食の様な身録の意味であり銭儲けに走る事やや華麗を嫌った。
そこに中興の祖、身録以後の富士講が爆発的に繁栄した一因があったようです。
この登山道は史跡として大変面白く魅力のある登山道です。そして今尚、生きた道です。


コメント(1) | この記事のURL | カテゴリー:歴史文化産業
※ボタンをクリックしてもコメントフォームが開かない方は、
お使いのブラウザのポップアップブロック機能を解除してください。

コメント