甲斐駒ケ岳(山梨百名山20)
2009.09.09 17:27 投稿者:ootaminoru

六根清浄。気持ちが良い登山でした。
甲斐駒ケ岳に平成21年8月26日に登りました。
甲斐駒ケ岳(2967㍍)は日本百名山そして山梨百名山に指定された山です。
ですから、百名山巡りに一度取り付かれた人は必ずここへ登りに来ます。
有り難い事です。
駒ケ岳と名前の付く山は全国で18座あるそうです。
その内、一番高い山は甲斐駒ケ岳(2967㍍)で二番目が長野県にある木曽駒ケ岳(2956㍍)です。
全国の駒ケ岳は夫々駒ケ岳信仰を持っていると聞きます。そしてその最初の発祥の地が甲斐駒ケ岳だと聞いた事がありますが如何なものでしょうか。
駒ケ岳の代表を北から10座を列記してみます。
雪形が、山の形が馬に似ている。叉巨摩の牧場?からであったり馬にまつわる命名でしょう。
北海道駒ケ岳(1131㍍)蝦夷駒ケ岳 渡島駒ケ岳
秋田駒ケ岳(1637㍍)
藤里駒ケ岳(1157㍍)
会津駒ケ岳(2133㍍)
箱根駒ヶ嶽(1356㍍)
越後魚沼駒ケ岳(2003㍍)
木曽駒ケ岳(2956㍍)
甲斐駒ケ岳(2967㍍)
越中駒ケ岳(2002㍍)
赤城山駒ケ岳(1685㍍)
甲斐駒ケ岳信仰、取り分け富士講と同様な駒ケ岳講が出来たのは文化年代(1804年~1818年)に信州の伊那谷の人、権三郎が山梨県の白州町から黒戸尾根を登り開山したことに始まるそうです。彼は弘播行者と言われていた。彼は三度目の挑戦で登頂したそうです。
それ以来甲斐駒ケ岳はこの黒戸尾根から駒ケ岳信仰として駒ケ岳講の組織的な存在を介して登られるようになります。
黒戸尾根の麓である現在の横手駒ケ岳神社及び竹宇駒ケ岳神社が登山基地です。
今右エ門の次男権三郎は何故、伊那市の三峰川上流の急長谷村戸台から北沢峠を経て開山しなかったのだろうか。
このルートからは既にもっと以前から登られていただろうし登りやすいです。
山梨県側の南アルプススーパー林道、野呂川林道や伊那側旧長谷村から北沢峠行きのバス道路が開通したのは昭和55年(1980年)ですが
それ以前は北沢峠を越えて昔から木こり達が信州長谷村と甲州奈良田間に交易があって踏み分け道があったでしょう。
当然、黒戸尾根の開山以前の古い時代に長野県伊那谷側から北沢峠(2032㍍)を介して甲斐駒ケ岳に登っていたと思います。
伊那谷の人々は木曽駒が岳を西駒ヶ岳、甲斐駒ケ岳を東駒ケ岳と呼んでいます。伊那谷の東西に駒ヶ岳を持っています。そしてその西駒ヶ岳(木曽駒が岳)は古い時代から信仰登山されていました。
西駒ヶ岳は1532年に駒ケ岳神社が頂上に建てられていたそうです。
そして木曽駒ケ岳信仰はもっと古い時代から木曽御岳山信仰の影響を受けたものだそうです。
御岳山信仰は既に御岳奥社が大宝2年(西暦702年)に信濃国司によって建てられたと言います。叉後白河上皇(1162年)が勅使を派遣して登山参拝をしたと言います。
そうした古い時代から、御嶽山は開山されて、その影響が木曽駒ヶ岳そして甲斐駒ケ岳に及んだと考えられます。
組織的な講の存在は中世の修験道の限られた山岳信仰者を対象にするものではなく庶民を対象とした観光業の性格が強いものだっただろう。
現在でも甲斐駒ケ岳の一番登りやすいルートは北沢峠から双子山、駒津峰を経由するか若しくは仙水峠から駒津峰経由で登るのが一般的です。当時もそのルートから登ったでしょう。
ですが駒津峰の先の六万石の岩峰に一基石碑を見つけるのみです。
甲斐駒ケ岳登山口の戸台川上流の現在の丹渓山荘の前の赤河原には駒ケ岳登山の一合目でそこには幾つか石碑が立っているそうです。
弘幡行者は大衆化を考えて観光登山の道として新たに甲州街道沿いの交通の便利な白州町の尾白川渓谷から一気に頂上まで伸びる黒戸尾根最が最短距離であり観光登山ルートとして適切であると考えたものと思います。
話が逸れますが黒戸尾根はその急坂で高度差が著しい登山道として三大急登の一つです。
①北アルプス烏帽子岳へのブナ立尾根(高度差1230㍍)
②谷川岳の西黒戸尾根コース(高度差1977㍍)
③甲斐駒ケ岳の黒戸尾根コース(高度差2200㍍)です。
それだけ黒戸尾根は逆に登山距離が短く短時間で登山が出来る事になります。
写真1は駒ヶ岳の横手駒ヶ岳神社の本社から向こう側の竹宇駒ヶ岳神社の本社(そこが甲斐駒ケ岳の最高峰で2967㍍)を見た風景です。
甲斐駒ケ岳の頂上は峰が二つあり少し低いほうに横手駒ヶ岳神社の本社があります。
高いほうの頂上に竹宇駒ヶ岳神社の石室がたっています。
写真2は横手駒ヶ岳神社の本社の石室です。
平成5年に立て替えられていました。
その石室には武田菱?に山を被せた神社紋が掘り込まれていました。
武田菱であるところに興味を覚えました。
写真3の石室は竹宇駒ヶ岳神社の石室です。
伊那谷側の東駒ヶ岳講は発達しなかったので石室、祠や石碑が少ないのだろうと思います。
その事は昨年そして今年に富士山吉田口六合目の案内所を通過した人の数は24万人を越えたそうですが、それを証拠立てるものは現地に何も残っていません。タダタダ情報を信ずるのみです。
信仰にもいろんな自己表現のスタイルがあるのだろうと思いました。
形に現われているものが実存しているものではなく、所詮文化とは人の心の中にしか宿らないもののようです。
観光とは文化です。
六根清浄
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