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甲州金研究(1)

2009.12.21 18:05  投稿者:ootaminoru

湯の奥金山博物館公開講座
「甲州金研究ー4つの金座の消長」

私も12月19日この講座を受講しました。
この湯の奥金山博物館は武田信虎時代以降の甲州での金の採掘、製錬、精錬、鋳造に関する常設展示と甲斐を中心に日本の金山開発や金貨幣に至る中世、近世の学術的な最先端の研究発表や広報講座が行なわれています。
今回の講座は63回目のものです。

この金山博物館はおそらくどこの都道府県にでもあるような総合博物館ではなく独自のテーマである中世近世の鉱山や精錬、貨幣鋳造に関する全国からの研究者の学術発表の場であり啓蒙活動として一般公開で学術的な講座を継続的に実施している特記すべきオンリーワンの場であろう。
何故其処までして山梨県で、しかも身延町下部で行なうのか?

今日の講座内容の紹介の前にその事を知って頂きたい。
一言で言えば日本の鉱山開発は15世紀に始まります。それ以前は砂金や風化した土壌からの分離精製が主でした。
石見銀山が開発されて次にその技術が甲州に流れて受け継がれて武田信玄の時代に花開きます。そして武田滅亡と共に技術及び人材は佐渡の金山開発や経営に受け継がれて行きます。そうした日本を舞台とした中世から近世に至る日本歴史の貨幣経済を築いた掛け替えのない場所なのです。

日本の貨幣は飛鳥時代に富本銭、そして奈良時代に和同開珎が鋳造されています。これ等の貨幣は物流経済に使われたものよりはどちらかと言えば権威のシンボルであり、為政者同志の贈答用に使われていた可能性が高い。二つとも銅銭です。

本格的な物流経済の流通を仲介する貨幣としては富本銭、和同開珎に次いで日本で鋳造された貨幣としては石見の銀のインゴットもありますが計数的な貨幣(定額貨幣)としては甲州の碁石金は二番目に古い計数貨幣です。
その間の長い時代は中国銭(宋銭)で日本の経済流通が賄われていました。

中世後半、即ち戦国時代末期になって石見銀山などから地金の銀の芋虫状のインゴットが鋳造される事はあってもそれは秤量貨幣(秤で秤量する地金)であり甲州の碁石金と呼ばれるような計数貨幣は製造されませんでした。この計数貨幣は貨幣単位制度の基準となり今日の経済の繁栄の原点と言えるでしょう。
4進法の1両、4分、16朱、64糸目です。1両金は4匁(15g)、1分金は1匁目で3.75gです。この一匁の3.75gは江戸時代初期の金貨幣の金の品位が基準(85㌫位)になっているようです。即ち一分金の1匁は金の地金の金の含有重量から来ています。武田の時代の武田領内で生産される精錬された金は銀などの不純物が少なかったので金の品位が高く、即ち金重量比率で90%以上を維持していましたので武田の碁石金は3.25gが一匁で一分金だったようです。
武田の碁石金が一匁で一分金の基準となっていますが、それは金の精錬行程でルツボに金の粗製金を入れて灰吹き法で鉛を加えて銀などの不純物を分離して精錬しますがその場合に1回のルツボから精錬される精錬金が碁石金であり、その碁石金の重量を揃えたものと思われます。

この事は中世末期の戦国時代に甲州は大量の金が産出した事、その金で時の甲州の権力者武田信玄は頒図拡大の為に侵略戦争を企て領外の地で何ヶ月にも及ぶ戦の為に1万人規模の軍勢を駐屯させています。本国から馬車隊や荷車隊の雑兵により食糧運搬の補給隊もいましたが、長期の戦では現地での食糧確保の為に略奪で食糧などの生活物質調達は無理であり、普遍的な価値を持つ金貨幣で一応の売買が成立し食糧を確保した事で軍の駐屯を維持出来たものと思われます。
武田軍が強力だった背景には金貨幣が豊富にあったと私は推定しています。昔も今も軍備や戦争には莫大な資金が必要です。資金力が即ち軍事力だと思っています。
信虎の時代は三千人規模の戦いでしたが信玄の時代は1万人規模の戦いであり、関が原の戦いは10万人規模の軍勢になります。
戦いの戦術、戦略も時代によって大きく変化していると思われます。それを支える経済システムにこそ戦国時代の勝敗を左右する要があったはずです。
気合だけで戦った第二次世界大戦の太平洋戦争。アメリカの国力の1/10しかない日本は長期化では勝ち目がなく開戦前に停戦や和解の条件やタイミングや時期をも決めないで最後の最後まで玉砕戦法で本土決戦まで頑張ろうとしました。南の島では補給路を断たれて飢えに苦しみ餓死したり飢餓のあまりに玉砕して惨めな死に方選択しました。日本の軍人軍属230万人、民間人80万人を死亡させ更に極東アジアの人を含めれば500万人以上の人を殺しました。それでも勝つならば許されるかもしれませんが、それだけの死傷者を出しながら後世の冷静な反省では、勝てない戦争を最後まで為政者が実行しました。
その最後の最後の敗戦を決めたのは昭和天皇自らの発案と決断だったそうです。誰もが国体の護持の為に敗戦を決断する最高指導者は居なかったそうです。国体の護持とは何か?天皇陛下の生の保証だったそうです。
本土上陸に備えて国民が竹槍で玉砕戦法で天皇陛下をお守りする。国民が皆殺しにあっても天皇陛下が一人残ればを国体の護持に成ります。その天皇陛下の護持を国際法に順じて敗戦宣言調印では保証しかねると軍部及び政府首脳陣は考えていたそうです。

話を戻しますが武田の時代に4進法といった貨幣単位が制定されて、その仕組みが後の江戸幕府の貨幣制度の基本となり、更に現在の円のルーツにもなっているのです。

ですから、山梨県は貨幣経済の基礎を作った鉱山開発、貨幣鋳造、度量衡制定の地であり中世の鉱山開発及び精錬、鋳造技術、貨幣の流通を研究する研究内容を講座を開くことによって広報する意味と講演内容を記録保存する仕事をしています。
大変ユニークな全国でも珍しい活動なのです。


写真1は新甲州金の甲安今吹金の壱分金貨です。表面(おもてめん)です。
   甲州金の鋳造は大きく分けて二つの時期に分けられます。
   前半は初鋳の武田の時代から1695年元禄8年に造られたものを
   古甲州金と呼びます。
   後半は江戸時代の柳沢吉保が改鋳した1707年宝永4年から
   1732年享保17年頃までに改鋳したものです。金の含有量を下
   げています。
   この写真の甲安今吹金は江戸時代の正徳元年(1717年)から
   享保6年(1721年)頃に鋳造された新甲州金です。

   このグログ続編(2)以降で本題の甲州金について、及び4つの
   金座の消長についてレポートしてみます。
   今回は湯の奥金山博物館の性格を描いてみました。

写真2はその貨幣の裏面です。
   裏面には甲州金であることの「甲」の字。及び「安」の字が極印
   として記されています。
   「安」は甲州金座の松木氏の世襲名五郎兵衛の三代目安成の刻印
   だそうです。

写真3は平成21年10月から22年2月までの間の5回に及ぶ講座「鉱山研究最前線」のパンフレットです。

インバウンド観光や国内の観光客誘致に直接関係するかどうかは判りませんが、山梨県内の人が地域の文化資源や観光資源をキッチリ理解し郷土の誇りとして受け継いで行く事は大切なことです。
その事が峡南地域の、そして山梨県全体の将来の繁栄に結びつくと思われます。少なくとも心豊かな文化的な生活が出来る一要因だと思います。
そうした意味からこの峡南の下部にある金山博物館の学術的な広報活動は計り知れないくらい大きな存在だと私は思っています。


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