舞鶴城公園(甲府城址)の初冬(7)
2009.12.22 17:28 投稿者:ootaminoru

晩秋から初冬、ブロンズの舞鶴について
甲府城址の鍛冶曲輪の舞鶴橋(堀の内側)の袂にブロンズの舞鶴がいます。
写真1参照
その昔、大正7年に大正天皇の即位を記念して本丸に池を造りその中にこの舞鶴を置いて口から水を出して噴水にしていたそうです。
恐らく甲府城(舞鶴城)の愛称として舞鶴城公園のシンボルマークが鶴の噴水だったのでしょう。
その場所は舞鶴が口から噴水している写真が稲荷櫓二階の写真パネルに展示してあります。本丸の謝恩塔の東側です。
そもそも舞鶴城公園は明治37年に陸軍からの借地でしたが山梨県立公園として庶民に開放されました。
ですが県は明治時代末期の二度の大洪水で復興費にお金が掛かりお金が無かったので国から買い取る事が出来ませんでした。
大正時代になって再度県は国に払い下げの交渉をしたが多額のお金が必要であり、叉国は日露戦争の後遺症としてイギリスから多額の国債(借金)を抱えていて無償譲渡には出来なかった。
大正6年に山梨県は甲府市内の豪商村松某氏の寄付を得てそのお金で国から甲府城址を買い取った。
大正4年は大正天皇が即位した年であり、明治天皇への皇室御料林を無償で県へ払い下げられた感謝の意を表す謝恩塔の建設の機運が盛り上がった時代だった。
謝恩塔を建設するにしても借地では格好が悪く山梨県としてはどうしても借地から県有地へとけじめを付けたかった。
尚、皇室の山林である御料林の県への無償払い下げは明治44年3月11日に下賜されています。
謝恩碑建設開始が大正6年ですが、その謝恩碑の完成は大正9年です。
不思議な事に完成後の式典は大正11年となっています。
理由としては御料林の払い下げから10周年目を選んだと言います。
大正天皇の即位といい、謝恩塔完成後の式典と言い、どうしてこんなに時期がずれるのだろうか。釈然としません。
太平洋戦争末期に本丸のブロンズの舞鶴は取り壊されて砲弾に鋳直されたらしい。
戦後40年を経て婦人会が、かいじ国体を記念して今度は鍛冶曲輪の舞鶴橋を渡った広場の真ん中に池と噴水を再現したらしい。
その場所の写真が恩師林会館の1階展示場の写真パネルにあります。
しかし、昭和28年頃に鍛冶曲に池と噴水の舞鶴を見たという人がいます。
その後、鍛冶曲輪は多目的広場として信玄公祭りのメイン会場であったり、よっちゃばれ祭りや恵比寿祭などの会場と多目的に使われるのに邪魔になったので池は取り壊されて舞鶴のブロンズは隅のほうに寄せられたらしい。
写真2と3は鍛冶曲輪の桜とドウダン躑躅の紅葉です。
平成21年12月1日記録する。
ブログ掲載を止めてお蔵入りを決め込んだが、12月17日のインバウンド観光講座の最終日に出席し、これからもブログ(山梨観光わいわいねっと)の継続を計画していると聞きました。元気百倍、来年もブログで頑張ろうと思い直しました。


コメント(0) | この記事のURL | カテゴリー:四季・レジャー
コメント
※ボタンをクリックしてもコメントフォームが開かない方は、
お使いのブラウザのポップアップブロック機能を解除してください。


近くのエリアの記事