TOP > ブログ一覧 > 山と川と土と人と > 浅原橋からの八ヶ岳

プロフィール

山梨の山と川と土と人とをテーマに自分にとって何であるのか?どのように関連付けて生きているのかを書いてみたいです。

ブログ内検索

カレンダー

<< 201911  
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

バックナンバー

最近の記事

カテゴリー

最新のコメント

関連リンク

浅原橋からの八ヶ岳

2010.01.14 21:11  投稿者:ootaminoru

冬の八ヶ岳は美しい

中央市は釜無川と笛吹川の合流点の内側の砂洲の上に出来た平地が元村です。
明治時代の終わり頃までの過去、雨が降ると洪水常襲地であり、旧田富町今福新田の村落には今でも二階の軒下に和船をぶら下げてある家があります。
有事の脱出用です。
江戸時代の絵地図に今福新田の村の中央を釜無川の本流が流れているものも有ります。
中央市の釜無川の川沿い左岸及び右岸の村落は過去水との戦いでした。
信玄堤が築かれて釜無川の流路を次第に西に振り向けて現在の流路となりましたが、その為に昭和町、中央市それから釜無川の右岸の旧若草町は流路になり、叉は氾濫原になりました。

臼井沼は昭和の終わり頃までありましたが埋め立てられてリバーサイトタウンが出来ました。埋め立てにより甲州の風土病に絶滅宣言が出されました。

その臼井沼も信玄堤が出来てからの湿地帯でした。
武田信玄による流路変更は有名ですがそれは旧武田城下町及び江戸時代の甲府の城下町を安定させるもので、その為に新たに洪水に見舞われ苦しむ民も居た事実を知る人は少ない。

かつて生涯学習で武田信玄の釜無川の流路変更(信玄堤築堤)の講義があった。講師は隆々と武田信玄の政策の素晴らしさ、農民を想う美談をを讃えて講義を終えました。会場から異議が上がった。川向こうの若草の住民です。
新しい流路に直面した村々はどれだけ先祖代々苦労してきたか?
結局、農民を想う心ではなく富国強兵を敷いただけだと言い張りました。
私は痛いほどその人の気持ちが解かりました。
富国強兵と内政の民衆政策と合致しないのは日露戦争以後の第二次世界大戦の歴史が証明しています。
今でも内政思いの武田信玄をあまり評価しない地域があるのです。

臼井沼は何時出来たか?
武田信玄により信玄堤が築かれる以前は竜王から真っ直ぐ東進して甲府市の中央を流れて小瀬スポーツセンターから落合に至り笛吹き川に合流していたものを信玄堤の築堤で現在の流路となりその氾濫源として昭和の時代まで広い沼地があったのです。
叉流路の変更によってそれまでの村は立ち退きを余儀なくされ、河原となり消滅し豆生田村は北巨摩の須玉へ移転し若草の浅原村は右岸や左岸に逃げて廻って現在は右岸にありますが、その浅原村民の菩提寺は左岸の田富町臼井阿原にあります。

こうした現在の流路の沿岸の村の水との戦いは今では古老からの伝承のみとなり薄らいでいます。

浅原橋からの八ヶ岳と北岳です。
一番八ヶ岳が綺麗に見える時期です。

旧田富町には粘土節の粘土お高ヤンの民謡が残っています。
堤防工事の労働歌です。

どこの村にも人が住む限り、掛け替えのない人の累々とした歴史があります。

これが私に住む臼井阿原の村落です。


この場所を地図から探す


近くのエリアの記事

人類史から学ぶ
From:山梨の山

コメント(0) | この記事のURL | カテゴリー:歴史文化産業

コメント

コメントを投稿する

ボタンをクリックしてもコメントフォームが開かない方は、
お使いのブラウザのポップアップブロック機能を解除してください。

▲Page Top