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押し切り処刑場(文化財史跡)

2010.01.15 20:17  

市川代官所管内押し切り処刑場

悪い事をすると牢屋に入れられ、お裁きを受けて、その最も重い刑として市川代官所管内では押し切り処刑場にて刑を執行されました。

場所は芦川が笛吹川に合流する合流点の河原の土手です。
代官所は市川の五丁目にあり獄舎は一丁目にあった。
刑の執行になると縄を付けた罪人が処刑場に連れられてきました。
言い伝えでは芦川の南側にあったと言われますが幾たびかもの洪水による河川改修によって現在は位置を変えて北側にあります。
処刑場跡には安政3年(1856年)の供養塔が残されていますが倒壊の危険性があり横に寝かせてあります。

文書が長くなりますが市川大門町誌の「押し切りの処刑場跡」P517~518を原文のまま掲載しておきます。昭和42年2月1日発行、市川大門教育委員会発行。
尚、現代では使われていない用語を含みますが江戸時代の封建社会の身分制度の出来事として歴史的事実の為に市川大門町誌をそのまま記載しておきます。ootaminoru 


幕政中、代官所で罪人に向って死刑の宣告をした場合は、一応江戸奉行所 へ伺って裁断を乞い、御下知があって決定の上、押し切りの刑場において犯罪の種類により、火あぶりや、磔刑(はりつけ)打首などの刑に処するので、裁断の通告がある間は引き続き入牢させて置くのである。
獄舎は一丁目の芦川上南通りの寄洲にあって維新後、明治14年頃まで建物が残っていた。四面造りの瓦ふきの建物で、非人頭の佐野浅兵平が司っていた。
死刑の日が来ると、検視の役人が代官所から出張して獄舎の前で御状目といって処刑の趣を申し聞かせ、浅平の手下からこれをえ多に引き渡すのである。長い刀を差したえ多連は縄付きの罪人を送って行くに、もっこに乗せて担いでゆく事もある。一丁目から六丁目山口の東路を経て押し切りの処刑場に行く、刑場の周りは二寸棒位の杭で囲いをし、それに縄を張っておく。
その日罪人通過の時は、宿道では各戸締めをして、節穴や戸のすきから窺って見る位で、平常人通りの多い大道もその時はしんとする。
刑場では荒ごもの上に乗せて目隠しをさせ、代官所から主張した検視の役人の立ち会う前でえ多の中の首切り掛かりはヤッと気合をかけたかと思うと、首は前に飛ぶのを、後でべらぼうを交わして控えているものが死体を突き倒し、直ちに河原を掘って埋めるのである。
処刑に処せられた中でも評判されたものは(はりつけ)にされたきも取りの下山の斧兵エ、親殺しの法師倉の久造、(火あぶり)では火つけの市川の源六、河内の金兵衛等で打首は沢山あった。
供養塔は身延久遠寺第六十世法王勅許上人が法号を書き、安政3内丙辰十一月十六日であった。

写真1  押し切り処刑場

写真2  安政3年の供養塔

写真3  処刑上の土手から芦川と笛吹川の合流点を望む


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