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甲府御代陣屋

2010.01.22 14:26  投稿者:ootaminoru

甲府陣屋即ち甲府代官所だったところは現在は甲府市立富士川小学校です。
名前と機能を変えていますが大切な場所として公有地として保存されています。
ナンセ江戸時代の代官所は山梨県庁程ではありませんが明治時代の郡役所に相当する場所であり年貢米の調達を管理し、警察権、裁判権を兼ね備えて持ち刑法や(民法)を司る役所だった訳です。
住民にとっては江戸幕府の幕府直轄権力の最前線の機関だった訳で恐ろしい場所でした。
そして悪い事をすれば捕まって牢屋に入れられ、お裁きを受けます。
極刑の場合は恐らく石和代官所管内の山崎の処刑場(現在は甲府市)で刑の執行を受けたでしょう。

先に八代郡の市川の代官所を掲載しましたが今回は甲府の代官所です。
町方支配とも言われたようです。
写真3 甲府城の東に商人街の外側を区画した三の堀があります。
戦のときは内堀そして二の堀内は武士の屋敷そして三の堀内は町人や商人の家を含む住人を一切合切含む守りの陣営で城を守るように城下を構築してあります。
江戸時代の城が全てこのような構造になっていた訳ではありませんが民間人や武家の女子供を含む非戦闘員を楯にした構造になっていました。
このように町人や商人町を含む民間人を竪にした城下の陣地を総構えと言います。
ですから城下を含む城盗りの戦いは城下町を焼き払う事は当たり前の正当な戦の戦略だった訳ですし、皆殺しの殺戮が展開された訳です。
それを回避するには北条攻めや江戸城明け渡しのように和睦だ大きな政治的戦争の解決手段だった訳です。勿論、お殿様始め男の子供は切腹叉は斬首します。
未だ民間人等の非戦闘員を巻き添えにしてはいけないとするハーグ国際条約はありませんでした。


次に写真1を見て下さい。
その三の堀の内側で甲府城の東の二通り目の北に三の堀から外れた場所に御代陣屋(代官所)がありました。鼠色で四角く描かれた場所がそれです。
拡大してよく見ると「御代陣屋」と記載されています。
その地は現在、甲府市立富士川小学校になっています。
写真1の画面中央の上から水路が右側に曲がって鼠色の御代陣屋をかすめて右側に三の堀の外側に沿って伸びています。この川が、ふじがわ(藤川)です。
その「御代陣屋」の道を更に北に進むと長禅寺にぶつかります。地図では長禅寺南口と書かれています。武田信玄のお母さん、大井夫人の菩提寺です。現在も寺もお墓もあります。

代官所の通りを下がりますと魚町通りです。
最も町人商人町として栄えた繁華街だった地域です。

代官所の通りの一つ左側の通りは竪近習町通りです。その下のほうは柳町通りです。
その竪近習町通りにあって上下の位置は代官所とほぼ同じ位置に「牢ヤシキ」と記載されていて牢屋敷がありました。
鼠色の区画がそれです。

絵地図は嘉永2年(1849年)の甲府絵図です。
原本は山梨県立博物館所蔵です。
私は竪近習通りの案内板から撮影しました。


現在は町名変更で名前を変えていますが今でも市内の人には分かる通り名です。
今も通りは昔のまま残っています。

甲府市内の繁華街を歴史の面として捉えて散策するのも楽しいものです。


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