船津口登山道敗退2
2010.03.24 21:10

平成22年3月22日旧船津口登山道を探しましたが見つかりませんでした。
河口浅間神社の奥宮として富士山に向けて河口浅間神社から湖畔の船津を通って船津口登山道が古代からありました。
その始まりは富士山の爆発した西暦864年に遡ります。
歴史的には富士吉田の浅間神社よりも歴史が古いとされ、八代郡に勅使を派遣して神の怒りを静めたとされる由緒ある河口浅間神社です。
その奥宮の富士山頂上への河口浅間神社からの登山口は河口浅間神社から船津を通り富士山に向いその道が船津口登山道で時代が中世に下がるに従い信仰としての登山が栄えていました。
その頃の登山は信仰のみの登山であり江戸時代中期以降の富士講に依る信仰を頭に冠する集団観光登山ではありませんでした。
河口の宿泊旅館業は伝統的な業態で御師はどちらかと言えば個人客を宿泊させるものでした。甲府から御坂峠を越えて、叉駿河からの武士階級が多かったようです。
1700年頃を境に富士吉田にお客を取られて衰退して1800年代に入ると決定的になります。
甲斐国誌が編纂される1850年代にはもう船津口登山道の記載はありません。その頃には神官や特定の人々によって守られた道は残っていたかもしれませんが観光客の登山道ではなくなっていたと思われます。
河口の恩師の衰退は1700年頃に富士講の教祖、身録が解かりやすくシンプルで合理的な考えによる念仏が江戸市民に受けます。
そのころの風潮として神社仏閣への信仰を関する観光旅行が盛んになる時代でそんな時代背景に押されて富士山詣の人気が高まります。
身録を富士吉田の御師がスポンサーとなり援助をしました。
それ以降、富士吉田の御師の宿場が富士講の指定宿となり繁栄して行きます。
富士吉田の御師は江戸や関東方面をターゲットとする団体客の富士講を組織します。現代の旅行代理店業務を兼務していました。
信仰と冠する団体の観光旅行は以後急速に繁栄して行き先達、御師、強力等の観光案内システムが完備します。
今回は五合目から逆に精進口登山道を下り四合目(精進口登山道の四合目小屋)の小屋跡から分かれて真っ直ぐ最短距離で現在のスバルライン二合目付近に降りる道がありました。これが江戸時代からの旧船津口登山道です。が、どうしても旧船津口登山道の四合目小屋からの入り口を見つけることが出来ませんでした。
私は戦後の昭和23年頃だと推定しているのですが富士吉田駅からバスで三合目まで行けるバス道路を建設します。旧船津口の湖畔からの道を広げて二合目まで進み、そこから急斜面になるので旧船津口登山道と別れて大きく迂回するなだらかな自動車バス道路を建設して三合目で精進湖登山道と合体します。
三合目にはバスのターミナル跡が今でも残っています。
このバスの運行は戦後の昭和23年頃だろうと思われますが昭和39年頃に終っています。それは昭和39年頃に山梨県側の五合目まで入れる富士スバルラインが開通したからです。
昭和39年は東京オリンピックの年でそれに間に合わせるべく東海道新幹線が開通します。静岡県はそれに合わせて表富士スカイラインを建設し富士宮五合目までの自動車道を完成させます。
東海道新幹線で東京圏、名古屋圏の客を富士宮からスカイラインで表口五合目に導く交通網を完備しました。
富士宮登山道から頂上を目指すで
山梨県側はあせります。
富士登山者を静岡県に奪われる事は富士山を広告塔にする富士五湖の観光自体の衰退を危惧し対抗策として山梨県はスバルラインを山梨県企業局で立ち上げ完成させました。
以後、現在に至るまで山梨県側富士山登山の大量輸送機関にスバルラインが貢献しています。
その東京オリンピックで東海道新幹線が引かれる前の15年間が船津口登山道のバス運行期間で船津口登山道でした。
現在、旧船津口登山道は二合目から旧バス道路と分岐して現在の精進口四合目まで結んでいましたが、高度で200m余りの区間ですっかり樹海の中に消えて踏み分け道は解かりませんでした。
今回は上から急登山道を探したのでした。
この記事は次の昨年の関連記事と合わせて読んで下さい。
1 2009年8月23日船津口とざんどうを行く
2 2009年8月23日船津口登山道を行く 追録
3 2009年8月24日富士山精進口登山道
4 2009年9月 8日船津口登山道探険敗退
写真1は赤の太い実線が精進口登山道です。
画面が小さいので解かり難いと思います。写真1をダウンロードに入れて置きますので合わせて見て下さい。
精進口登山道はスバルライン終点のターミナル五合目から下り四合目小屋跡を経て三合目を経て精進湖畔にでます。
その三合目に枝分かれして船津口登山道(バス道路)が出ています。
始めは青で途中から赤の点線がそれです。
旧船津口登山道は四合目から真っ直ぐほぼ直線で青のスバルラインと船津口登山道が交わる二合目のヘアピンカーブの曲がり角に下りていました。
写真2は精進湖登山道四合目小屋跡です。
この小屋は昭和5年に精進口登山道を山梨県が開削します。その時に山小屋を設置し、以来戦後まで営業していたものと思います。
特に船津口からバス路線が三合目まで延びて此処で精進口と合流して五合目まで進みますがその途中の四合目小屋は昭和39年以前が最も栄えた時期だったでしょう。
しかしもっと昔の江戸時代中期以前の旧船津口の四合目に相当し、何らかの小屋が存在していた地だったと思われます。
精進口登山道は昭和5年に山梨県によって一般道路(踏み分け道のような登山道としてではなく県道何号線)として開削されています。
昭和5年といえば東海道の富士宮と中央線の甲府間の身延線が全線開通した年です。精進、本栖湖方面からの富士山登山客誘致を考えたのではないかと思っています。
この頃、甲府盆地では武田神社が大正8年に建設され、そして昇仙峡の観光道路の開削が進み長瀞橋が掛かり乗り合いタクシーが営業されて観光化が進む時代でした。


コメント(2) | この記事のURL | カテゴリー:歴史文化産業
コメント
- コメント有難う御座います。
そして船津口登山道の探険記の精度の高い報告書有難う御座います。何よりも貴重な体験記事で痛み入ります。
このブログ解説以来の手応えのあるコメントです。
これで私も悠樹百倍です。梅雨の合い間を縫ってでもスバルライン高架橋から歩いてみます。
取り急ぎお礼申し上げます。 - 投稿者:ootaminoru: at 2010/06/27 08:44
- はじめまして、富士登山サイト「ROUTE5]のMASAと申します。
私も船津口ルートの探索を行っており、先週の日曜日も3回目の調査に行ってきました。
始めの船津口登山では、河口湖畔の千畳ヶ岩から登山を始め、スバルラインの高架橋の先から4合目に直接向かうルートで進みました。
途中、藪は多いものの踏み跡がしっかりしており、1870m付近までは難なくたどり着きましたが、その先で探索するも道がわからなくなり、最終的に探索で見つけた見通しのよい森を真っ直ぐ南下(直登)するコースを通り、精進口4合目より50m上の所に出ました。
自宅でGPSデータで検証し、翌月の吉田の火祭りの日に、2度目の調査に行きました。
火祭りがあるので午前中だけの調査で、前回の1870m~4合目までの探索でした。
前回に比べ、更に藪はひどくなり、ようやく1870m地点まで到達しました。検証どおり、はっきり残っている踏み跡のほかに、南に向かう道を発見し登って行きましたが、1900m付近で更に藪はひどくなり、落ちた葉や枝で踏み跡がほとんどわからない状況で、探索するも制限時間が来てしまい、引き返しました。
そして先日、三度船津口へ突入。なんとか踏み跡らしきものを辿っていくと、途中に古い空缶を発見し、誰かが以前通った安堵感がありました。1960mで藪を抜け、見通しのよい林に出ました。
うっすらと残る踏み跡を辿り、2045mで小御岳氷穴などの5つほど氷穴があり、小御岳氷穴第1のすぐ上で、精進口4合目の山小屋跡の目の前に出ました。
しかし自宅で確認した所、このルートも最大で東に40mほどずれていて、再度調査の必要が出てきました。
とりあえず、ここまでの探索結果を私のHPに掲載していますので、参考データとして使用して頂ければ幸いです。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fujisan60679/index.html
今後は、この1900m~4合目の正規ルート探索に付け加え、1400mの標柱と祠の分岐点~スバルライン、1610m~1652mの旧道ルートの探索も目標としてみたいと思います。 - 投稿者:MASA: at 2010/06/26 00:02
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