神岡城と武田信玄と金堀衆
2010.05.14 18:42 投稿者:ootaminoru

国宝松本城の天守閣に書かれている歴代城主の表に武田信玄の名前がありました。
ある時期、松本平は武田信玄が侵略し制圧した時期がありました。ですからその時期の城主は武田信玄な訳です。
更に武田勢は安房峠を越えて飛騨側に深く侵略した時期がありました。その時期の神岡城主は江馬時盛であり、江馬氏は武田方の飛騨侵略に対して家臣として従い仕えました。その時期は永禄7年(1564年)であり第五次川中島の戦いの年です。
信玄の有力家臣である山県昌景は越中に勢力を広げていた上杉方と敵対していた時期でありその神岡城を拠点として越中攻略を窺っていました。
ですから神岡並びに北方の越中県境に武田の勢力が入り込み、更には金堀衆が鉱山開発に勤しんでいました。
神岡と言っても山梨県の人はあまり馴染みがないでしょう。
飛騨高山の北方20kmの位置で日本海の富山湾に流下する神通川の上流です。地図で確認下さい。
神通川が富山湾の海に出る河口近くの旧河川の氾濫原に天保時代に開拓に入り新田開発を行ないます。その開拓村は「金山新」であり美田となった村です。
「金山新」は「金山」から開拓に入ったと富山市の金山新の地史だったと思いますが書かれていました。その地史がどうしても今回ブログ記載に際して再発見出来ません。現在富山市に「金山新」はありますが「金山」の地名が郵便番号帳では見つかりません。
富山平野に降りた「金山」はその昔、飛騨と越中の国境地帯に幾つかの鉱山があってそこの採掘していた金掘り衆や管理者が枯渇して閉山後に富山市の平地のどこかに下って来た場所です。
「金山」集落として土着して農民となったと記載されていました。
富山湾へ流出する神通川の河口付近の「金山新」はその歴史を辿れば中世の武田信玄時代の甲州の金堀衆に行き着く事になります。
実は私の父方の母親即ちお祖母さんは「金山新」から嫁いで来ています。
ただそれだけの事ですが甲州と飛騨の神岡と越中富山は時代をずらして繋がっていた可能性があります。DNAが何処かで入り混じっている可能性がありそうです。
写真1は神岡城です。この城址は1970年に神岡鉱山三菱金属神岡事務所100周年記念に模擬天守と城門を建築したものです。
武田信玄の中世の城のモデルではなく近世のモデルであり全く史実とは異なります。その後、元和元年(1615年)江戸幕府命令で破却され廃城となっています。
写真2は富山平野の呉羽山山麓に咲くスミレです。日本海沿いの北陸のスミレは全てがそうだかは分りませんが白いスミレが主流のようです。
私の母は現在93歳ですが大阪へ嫁入りの為に富山を離れるまでスミレは白い花と思っていたそうです。
北陸の白いスミレは花弁の付け根付近に紫の筋が見られますので紫の色素を持っている事は確かであり突然変異で色が抜けてシロバナになったのではありません。
北陸のスミレは白いのです。
写真3は飛騨の梶尾温泉の露天風呂です。
八重桜が散り終わる頃で湯船に桜の花弁が浮かんでいます。


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