山梨百名山要害山10
2009.06.03 06:20 投稿者:ootaminoru
山梨百名山の要害山(標高780㍍)は躑躅ガ崎の館の北方3kmの地で比高250mの山です。現在では登山道が整備されていて歩きやすく30分ほどで登れます。
この山は武田信玄時代の山城として知られていて国の史跡に指定されています。
築城以来何度も手が入り石積みなどの多くは後世のものである可能性も高いそうです。幾つもの門の跡や枡形虎口、クランク状の道、竪土塁、腰曲輪、竪堀、曲輪、土塁、井戸(諏訪水)、谷川への水汲みへの道、根古屋村落などの施設が残っていますが恐らく信虎、信玄、勝頼そして家康の時期に至る戦国時代後期の累積した改築の遺構だろうと言われています。
この山城は1519年に武田信虎が川田から相川扇状地の躑躅ガ崎の館に築城し引越して来ます。そして翌年に信虎が要害山城を築城したことが判っています。高白斎記に永正17年(1520年)に「積翠寺丸山をお城に取り立てられ、普請始まる。」とあります。
翌年の大永元年(1521年)駿河の今川家の家臣だった福島正成は自立して勢力の拡大を図り甲斐国に攻め込んだ。武田信虎は躑躅ガ崎の館を捨ててこの要害山城に篭城した。結局、福島正成は要害山を攻め落とす事が出来ずに敗退した。それが飯田河原の戦いです。湯村山城の事も記録に出てきます。
この時に身重の大井夫人は麓の積翠寺に避難して子供を産んだとも積翠寺の記録には書かれているようですが、要害山城に逃げ込み出産したとも甲陽軍鑑では書かれているようです。その子とは武田晴信(信玄)です。
天正3年(1575年)武田勝頼は長篠の戦いで大敗しますがその翌年に帯名の郷の村役人に人夫督促状を発給しています。
要害山城の修築を命じたものです。しかし勝頼は躑躅ガ崎の館及び要害山城を捨てて新府城に移ることになります。1582年のことです。
写真1は要害山城の主郭部分です。今の時期新緑でとても美しい。鶯がしきりに鳴いています。
周囲を高土塁を築いて侵入を拒んでいます。裏門を出れば複数の堀切や竪堀があり尾根を抜けて多良峠から山梨市方面へ、岩堂峠から春日井方面へ抜ける逃げ道が当時から備えられていたと思われます。
春日井、石和、更に山梨市方面は武田家の故里であり沢山の縁の寺院があります。落ち延びる時には最適の立地条件に築城したものと私は推測しています。
躑躅ガ崎の館と要害山それから近代的な甲府城をセットにしたツアーを組むと素晴らしいと思う。それから勝頼の築いた新府城を入れたら一泊二日のコースが出来上がります。
山梨百名山でしかも武田の築城技術、中世の戦いから近世への戦争の仕方や築城の変遷等など語り口は豊富にあります。
写真2は門の跡です。内側には三方を土塁で囲んだ虎口が築かれていて、道は直角に曲がっています。
写真3は要害山城の麓の積翠寺です。臨済宗妙心寺派です。
ここで信玄が生まれて産湯を浸かったといわれている井戸が残っています。
平成21年6月2日
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