大蔵教寺山(山梨百名山12)
2009.06.09 13:22 投稿者:ootaminoru

石和で北東の方角?一番近い山並みを眺めると、大きくコンクリートで補修した崖のある山が大蔵教寺山(標高715㍍)です。
石切り場跡をコンクリートで崖崩れ防止補修したものです。
その麓に大蔵経寺山の名前の元になった大蔵経寺があり、並んで物部神社があり、その神社境内から登山口があります。物部神社の附属のお寺が大蔵経寺です。
大蔵教寺とは正式には松本山大蔵経寺ですがこの寺は奈良時代からあって、行基が開山したと伝えられる青獅松本寺です。
時代は随分下がりますが1370年、時の甲斐の守護であった武田信成が寺院を造営し寄進します。
足利義満の子(庶子)観道上人を講じてこの寺を中興の祖とします。庶子とは正室以外が生んだ子で父が認知した子。
その時に大蔵経を持ち込んだ教典をお宝とした真言宗智積派の寺としました。
大蔵経とは朝鮮半島の高句麗で1011年契丹の侵略、及び1236年元の侵略に遭い沢山の教典が消失したので高句麗で新たに再編集して編纂した教典を大蔵経と称する。その大蔵経が日本の室町時代に日本にもたらされて東京の増上寺や大谷派に齎された。
その大蔵教典を持つ寺という意味です。
しかし、この大蔵経寺山、大蔵経寺の興味津々の由来はそんな新しい戦国時代時代にあるのはなく律令国家制定前後の飛鳥時代や奈良時代に遡ります。
前後しますが、今回甲府市の上積翠寺から山の中を歩きこの大蔵経寺山に出てそこから下って物部神社及び大蔵経寺に下山して来ました。
この大蔵経寺山には積石塚古墳、物部神社、そしてすぐ近くの御室山、山梨岡神社、鎮目(寺本廃寺)そして長谷寺を含めて大変古い時代に栄えた遺蹟が残る史跡です。
物部神社は後年、何かの都合で御室山の斎場(墓場)を現在の物部神社に移しています。物部神社は神社なのに沢山の墓があります。古式の斎場を伝えていると思います。
山梨県の古墳時代以降の古代律令国家前後からの歴史の要の地です。
勝沼大善寺が祭礼として鳥居の山焼きを行ないます。
それに対向して長谷寺(古代の斎場)を応援した山梨岡神社(大蔵経寺派)は笈焼の行事を現在に伝えています。
恐らく勝沼の大善寺が新興勢力として仏教を持ち込んだ時期に、旧勢力であった物部氏の非仏教勢力との間に諍いがあったと想像できます。
それが、大善寺側としては敵方の神社の象徴である鳥居を焼失させた。即ち神社を焼き討ちにした。叉物部氏側である山岡神社では坊主の背負う笈(おい)を焼いたとする戦勝行事若しくは戦勝祈願が今に残っているように思う。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと同じように坊主の背負う笈まで憎かったのだと思う。
両者間で激しい勢力争いがあったと想像します。
御室山、山梨岡神社は明治時代初年、山梨県の県名の命名の元となった「やまなし」の語源(山無媛)であるといわれています。
直接的には山梨郡の郡名を採用した形ですがその郡名はここ山梨岡神社から出ている訳です。山梨岡神社境内には巨摩郡と山梨郡を分けたとする基準石(郡石)が残っています。岡とは山の意味です。
野生の山梨(ズミの仲間)の木が転じたものとする説もあるそうですが、私はその説は採りません。
そして八代郡の堺は笛吹川であり八代郡の市川等は富士川ですが、巨摩郡の境界は大蔵経寺山の稜線及び延長線上の尾根で仕切られています。稜線は直線ではなくて複雑に曲がっています。多良峠付近まで複雑な稜線を郡界としています。驚く事は律令時代の古代国家が出来て「甲斐の国」以来、現在に至り同じ境界線で仕切られている事です。
甲府盆地の基準点は青沼であり石和です。
大蔵経寺山(大蔵経寺の山林で寺社領)を下山途中、高台に御室山があります。その御室山は物部氏一族の神を祭り叉物部氏一族の奉斎(斎場)する場であった。その祭礼の行事が生まれて、祭神として山無媛=やまなし(応神天皇のお妃になった人)を祀るようになった。その御室山の里宮が山梨岡神社です。
物部氏一族は天皇家と絡んで大和政権の樹立に殊勲を立てた。大和政権が、叉物部氏は大和奈良から東国に勢力を拡大してゆく中で、その守護神として山無媛(やまなし)=律令国家の朝廷の錦の御旗
を象徴的に冠としたと思われます。
ですから静岡県袋井市の太田川上流にも山名神社があり月夜里(やまなし)の地名が残っています。、叉東国の千葉県にも同様な地名や神社が残っています。
この大蔵経寺は武田家の歴代の戦勝祈願の場所であった事はいうまでもありませんが、徳川家康も参拝していますし、更に江戸時代の勤番制時代に毎年二回だったと思いますが平和を祈願祈祷する幕府恒例行事に指定された寺でありました。
伽藍は元禄年間、更に文化年間に消失していて現在の建物は天保から安政時代(1830~1950年)に建てられたものです。
この項が長くなりました。語りつくせない物語が沢山あります。
枝葉は此れからの兜山の山梨百名山などで紹介します。
山を歩く、山に登るとは自然を眺める事もありますが、人間及び人間社会を眺める事でもあります。
仏教寺院には必ず00山00寺と山名が付きます。
仏教や神教は山とは切り離してその修行の場が考えられないからです。
後者の社会学的人間、人間社会ウオッチングは古来から仏教や神教が行なってきたアプローチです。
事象に距離を置いて観察してみたり、利害関係の外に身を置く事によって始めて見えざるものが見えたりします。構造を見る場合、余所者の視線が必要なわけです。
是非一度は積翠寺から山中を通って大蔵経寺山へ、そして物部神社、大蔵経寺、山梨岡神社、寺本廃寺へ巡礼の旅をして下さい。
寺院仏閣神社とは、そしてその他の史跡もそうですが、その時代に後世まで語り伝えたい、残したいと真剣に願った記念すべきメモリアルホールなのです。
これから先の時代は解かりませんが今までは寺院仏閣や神社でしか心を保存できなかったのです。勢者必衰の理を表すです。
宗派やその他の好き嫌いを除外して尚、後世に語り伝えたいと祈願する種族や血液保存の本能に裏付けられたぎりぎりの記念碑(メモリアルホール)なのです。
そこのところをどうぞ良しなにご理解くだされば幸いです。
その事は「観光の原点はお寺や神社参りに始まります。」
何時の時代もお寺や神社が観光拠点であることには変わらないでしょう。
どのように山梨県民が山梨の歴史をわかりやすく物語りに出来るか?自分のものとすることが出来るか?その組織的な補助の役割分担と手法や程度等の組織とソフトがこれから問われているのだと思います。
写真2は大蔵経寺の境内から大蔵経山を写したもので石切り場のコンクリート補修が見えています。
写真3は昨年の12月28日から10日間に渡り山火事の遭った大蔵経山の尾根付近の赤松林です。


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