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		<title>わいわいねっと [山梨の山]</title>
		<description>山梨県は山国です。
たくさん山に登ってきました。
その魅力は知る人ぞ知る宝です。しかし県内者を含めて知られていません。これからも自然の発掘に勤めます。ブログ初めてです。どうぞ宜しくお願いします。</description>
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	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2010/08/220718074200.html">
		<title>笹子雁ガ腹摺山（山梨百名山１５）</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2010/08/220718074200.html</link>
		<description>笹子にある雁ガ腹摺り山（１３５８ｍ）へ行って来ました。
その昔、雁が山を越えて国中地方と郡内地方を行き来したのでしょうか。
国中と郡内を隔てる笹子山塊です。
武田勝頼主従４０余名も田野で進退極まり迷走して日川渓谷で果てる事になりました。
その一番低い所が笹子峠ですが、そこからコースタイム７０分尾根を横移動した高台が笹子雁ガ腹摺り山です。
写真１がそれです。

甲府盆地から江戸への最短の街道は甲州街道で、なんと昭和１３年まで昔のままの峠道を使っていました。即ち矢立の杉を見ながら峠を越えなければなりませんでした。
写真２が昭和１３年開通の笹子隧道です。

それよりも先、明治３６年に鉄道、中央線に汽車が走りました。
鉄道の開通は甲府盆地と東京の距離は一気に短縮しました。
そして昭和１１年から３年の歳月を掛けて笹子峠の真下、長さ１００㍍の笹子隧道が完成しました。

写真３は笹子峠頂上の天神様です。</description>
		<dc:date>2010-08-22T07:42:00+09:00</dc:date>
		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
		<dc:subject>歴史文化産業</dc:subject>
		<dc:publisher>山梨学院大学</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/140550055858.html">
		<title>寺本廃寺（寺本古代寺院）</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/140550055858.html</link>
		<description>春日居に寺本廃寺があります。
寺本は春日居のこの地区の地名で、そこに遺蹟（礎石）が桃畑の中に残っている廃寺らしきものがある。その遺蹟の名前も何も解からないので寺本廃寺としたらし。市教育委員会の説明書きには寺本古代寺院跡としています。
地名の「寺本」も遺蹟と語り継ぎからの命名のように思われます。


甲斐国分寺と同等の時代に建設されたお寺です。甲斐国分寺とそれ程離れた位置ではありません。

白鳳時代（７世紀後半）。
その頃、中央政府は仏教を導入したので地方の豪族は先を競うようにして私の寺院を建設した時期だそうです。

豪族の私寺として、叉は山梨郡の寺として、甲斐国府の寺として、、、、と考えられるが現在ハッキリした事が解かっていないそうです。
いずれにしても山梨県内で一番古いお寺かも知れないと推定されています。

時代の判定には発掘される瓦の文様や形式からわかるのだそうです。

写真１は礎石などから推定される三重塔復元模型です。
春日居郷土館にあります。
同時代の大阪?にある寺院からの推定だそうです。

写真２は境内の概念図です。

写真３は礎石です。７世紀のこの頃、既に石割り加工技術が完成しています。１６世紀後半の戦国時代末期に自然石に近い野面積（安太積）でしか石垣を築く築城技術が発達していなかったというのは疑問に思う。
戦争の最中に大急ぎで築城する時代だったことが野面積だった理由ではないかと思う。</description>
		<dc:date>2010-08-22T07:42:00+09:00</dc:date>
		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
		<dc:subject/>
		<dc:publisher>山梨学院大学</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/131625170559.html">
		<title>兜山（山梨百名山14）</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/131625170559.html</link>
		<description>山梨百名山、兜山（９１３㍍）です。


笛吹市（旧春日居）にある兜山、大蔵経寺山の麓はその昔、甲斐の国府（首都）があった場所です。
大和政権が樹立し奈良に都をおいた律令中央集権国家が誕生します。
聖武天皇は東大寺を造営し大仏を鋳造します。そして諸国に国を置いて国分寺、国分尼寺の造営を諸国に命じます。甲斐の国の場合は一宮の国分寺、国分尼寺史跡がそれです。
そして国司を置いて律令国家の安定を図ります。口分田です。
春日居の地名の発祥となったといわれる奈良の春日大社、京都の賀茂神社等の文化をコピーします。春日賀茂神社です。
甲斐の国の国府は春日居の鎮目、国府、寺本周辺であったと推定されています。
寺本廃寺そのものであった可能性もあるそうです。
現在、春日居支所役場が寺本廃寺に隣接した寺本にあります。誠に当を得た場所だと思います。
叉隣接した国府に甲斐奈神社があります。
奈とは村とか町とか人口の集積地を表現する言葉だそうです。
「甲斐」の言葉がこのような神社名で残っています。甲斐の国の神社を束ねる総元締めの仕事をしていたとの説もあるそうです。

一宮、春日居、石和、八代、御坂を含めた現在の笛吹市が律令国家の甲斐の国の中心であったことは間違いない事実です。
その後の律令国家が緩む時期、即ち口分田制度が緩む時期には御坂などへの移転もあったと言われていますが、強大な荘園がこの地域に誕生し、引き続き武力と権力を背景とした政治の要の地であったでしょう。
ですから文化財や史跡がこの地域に集中しています。

国指定の文化財は１４あります。
県関係の文化財は３６
市指定の文化財は１４０あります。

この数の多さ、内容の濃さは山梨県の他の地域を圧倒的に抜きん出ています。

歴史散歩コースが山梨県と笛吹市で構成されて指定されています。
該当地には看板が設置されて説明がされています。
今後もっと私達県民が積極的に楽しく参加できるようなボランテガイドによる案内ツアーの常設や学芸員による説明会などなどの企画活用を図って頂きたいと願う所です。

国レベルでは奈良や京都や鎌倉がありますが山梨県の甲斐の国では古代の国府の場所はここであり文化の中心でした。
更なる理解と慈しみ、愛着があっても良いと思います。

風の便りでは市町村関係で観光ボランテア案内は笛吹市が一番充実していると聞きます。
更なる発展を期待して止みません。

兜山に話を戻します。
山中には大きな岩がゴロゴロしています。
巨石もあります。

春日居駅付近から眺めると兜の様な姿をしています。
姿からの命名でしょう。

兜山は安山岩の山で鎮目（しずめ）から林道が奥深くまで着けられていて自動車でかなり高い地点まで入ることが出来ます。
途中、長谷寺（ちょうこくじ）があります。
長谷寺は別項目に記しましたが、もっと古い時代の中央集権国家樹立以前の上代からの三昧場所（墓地）だったでしょう。
庶民にも広く活用された遺体を埋葬する場所であり、祖先の霊を安置し祀る場所でした。
恐らく長谷寺と名前の付く以前から、叉甲斐の国府が置かれる以前からの大切な場所であり、庶民にとって記憶し保存し継承しなければならない大切な地だったでしょう。
後世、長谷寺と冠してその性格を持続保護しようとしたのでしょう。

林道の奥に駐車場が設けられていて、そこから最短距離のルートで歩いて凡そ６０分で頂上に立つ事が出来ます。
三つの登山道が用意されています。
岩堂峠から深草観音、要害山を経由して積翠寺へ向う関連コースも設置されています。

兜山、大蔵経寺山は上代から麓の人間社会を眺めてきた山です。
その時代によっていろんな変遷があったでしょう。
そしてそこに住む庶民にとって、著しい社会の変貌は実は昭和３６年１月石和のブドウ園からの高温の温泉が湧き出したことだったでしょう。
数年で石和、春日居の街の景観や経済の仕組みが変わりました。

その温泉も源泉湧き出し量は減り、更なる発展の為には新しい仕掛けが必要な時代になりました。
石和温泉駅の駅前は一新されて素敵になりました。
これからは料理を含めて何を山梨で見て体験して、味わって、憩いの休息の場として提供できるか？地域ぐるみのおもてなしや観光スポット、観光案内などなどの充実が望まれる時代になりました。
私はその一角として甲斐の国、歴史散歩が好いと思います。
郷土を愛する、その心は以心伝心、伝染するだろうと思います。

甲府盆地の他の市町村の人間にとって石和、春日居の温泉への宿泊及び街に出かけることは少ないのですが、夏の夜の花火大会には毎年恩恵を被らせて頂いています。温泉街の出現で花火大会が開かれるようになりました。
ありがとう御座います。
笛吹き市の花火が終ったらもう秋です。精霊流しです。

写真１はギンリョウソウです。

写真２はアミタケです。食べられます。

写真３は頂上の標柱です。
　</description>
		<dc:date>2010-08-22T07:42:00+09:00</dc:date>
		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
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		<title>女高野山、長谷寺</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/111854220751.html</link>
		<description>笛吹市（旧春日居町）に菩提山長谷寺（ちょうこくじ）があります。
長谷寺の案内掲示板にこの寺は平安時代隆盛を極めたそうです。

元々奈良県の桜井に長谷寺（はせでら）があります。凡そ８世紀前半の頃と推定されていて開基は道明上人ですが東大寺の末寺でしたが次第に独立し真言宗豊山派に分かれてゆきます。観音信仰で女高野山と言われ十一面観音が女性に優しかった。そこから駆け込み寺と異名を取った。牡丹が有名です。鎌倉の長谷寺はアジサイ寺としてこれまた有名です。

その奈良の長谷寺（はせでら）は女性に人気があり古典文学に登場し枕草子、源氏物語、更級日記も書かれています。
平安時代の初期に律令政治が行き届いていた時期に甲斐の国の国府にもコピーされたのが菩提山長谷寺（ちょうこくじ）だろうと思う。
その頃の山梨県の国府は春日居の国府、寺本、鎮目周辺にあったと推定されていて甲斐の国の律令政治の要の地で賑わったことでしょう。
その、山側の奥地が長谷寺です。その地は元々縄文時代からの斎場だった場所と推定され、時代が下がり、物部氏の守護神が山梨岡神社であり、律令国家制定時代の変遷と共に真言密教の斎場として人々から守られ、大切に保存されて来た場所だったと思う。

時代が下がり、荘園の発達が進み甲斐の国の律令政治が乱れて甲斐の国府の場所も移転しこの地を離れてしまった。そしてやがて戦国時代に戦国大名が国主へと入れ替わり守護大名の地が国府となる。
即ち甲斐の国のあちらこちらに、豪族や荘園が分散し人口もバラケて行った。
その事は菩提山長谷寺の衰退期に入ったと思う。
やがて山岳宗教の山寺は少しずつ人の通わぬ廃寺への道をたどるようになって行った。

私はこのように菩提山長谷寺を物語りたい。
境内の階段が５００段ある大きな寺だった。
明治の頃までは山門が残っていたそうです。
昭和１２年の頃までは７月１３日の精霊迎の日に沢山の人が長谷寺に集まったと言います。

甲斐の国の歴史と共に歩んで来た長谷寺です。

写真１は５００段の石段
　　　　筍が生えていました。

写真３は本堂です。</description>
		<dc:date>2010-08-22T07:42:00+09:00</dc:date>
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	</item>
	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/111617182130.html">
		<title>美しの森にツツジ咲く</title>
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		<description>清里、美しの森にツツジが咲いていた。
サラサドウダンツツジと山ツツジとレンゲツツジです。
そうなんだ。
清里の売りの花はツツジだったんだ。

山ツツジは結構何処にでも、、、蓮華ツツジは甘利山そして柳沢峠の００窪平が有名だ。
サラサドウダンツツジは雲取山などの山地にはあるが、公園などには珍しいのでは。
そろそろ甘利山にも蓮華ツツジが咲く時期でしょう。

写真１がサラサドウダンツツジ

写真２が蓮華ツツジ

写真３は手前が蓮華ツツジで奥が山ツツジ</description>
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		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
		<dc:subject>四季・レジャー</dc:subject>
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	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/101818200802.html">
		<title>赤岳（山梨百名山１３）</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/101818200802.html</link>
		<description>八ヶ岳の赤岳（山梨百名山１３）

もう雪が解けた頃だろう。
何時もなら長野県の茅野側から入山するのですが、今回は一宿一飯の恩義ある山梨県に対する礼儀として清里側の県境尾根から登山をしました。
牛首山経由だったら雪が溜まる場所がないので安全パイとして復路の取っておいて、往路は、もしかして鎖場で雪があった場合登はんが困難な県境尾根を登ることにした。早めの判断、早めの退却が好ましい。

全てが順調な滑り出しでした。
しかし、心配した地点、七合目上の滝のコルで急斜面に設置されている鉄の鎖が雪に埋もれています。
距離にして僅か２５メートルくらい。アイゼンもピッケルもない。
夏山装備では危ない。滝の途中からトラバースで鎖とハシゴを使って中段の壁を横移動して滝の流路の途中に入り込み落ち口まで鎖で這い登るルート。その滝上まで３０メートル。
滑落すれば１００㍍くらいの垂直な滝下へまっさかさま。

もしかしての予測どうりでした。

引き返しました。
下山途中に雨になりました。いよいよ入梅です。
あれ程鳴いていた鶯が全く鳴かなくなりました。
落葉松の新緑がとても美しかった。

下山途中に小天狗と名前の付いた小さな起伏地点に石碑がありました。
字を拾い読みしますと下記の通り。

東方　薬師如来
嘉永八年卯八月ニ□　□
甲斐国　右左口村　願主　小林平八


嘉永八年は１８５５年に該当します。
嘉永六年にアメリカのぺりー提督が率いる４隻の黒船が江戸湾浦賀沖に来ました。
小林平八さんは何を薬師如来さんにお願いしたのでしょうか。
西の阿弥陀如来ではないのが好ましいです。
国政ではなく、もっと個人的な願掛けだったでしょうね。
中道往還の右左口宿の住人、小林平八さんは八ヶ岳の赤岳登山をしています。そして何か願を掛けています。街道筋の世間通で行動力のある旦那衆だったのでしょう。
逢って話がしたくなりました。

清里側の県堺尾根はやはり７月に入らないと夏山の一般ルートとして使えないことが解かりました。

清里は山ツツジと蓮華躑躅が咲いていました。
清里の良い時に来たもんだ。
観光客はいまいちでした。</description>
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		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
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		<dc:publisher>山梨学院大学</dc:publisher>
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	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/100510054307.html">
		<title>観音霊場巡礼の旅</title>
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		<description>上積翠寺の瑞岩寺の元の古寺であった深草観音（岩堂観音）霊場へは甲府市相川扇状地の積翠寺側からと石和、春日居側から大蔵経寺山のニルートが主にあります。
特に大蔵経寺山ルートは古代から巨摩郡と山梨郡との境界線であり、古代の律令国家の時期から栄えた石和や春日居地区を出発点にしていますのでその係りがあるのではないかと興味を引きます。
その時代の甲府市、特に相川扇状地の積翠寺は武田信虎が１５１８年に躑躅ガ崎の館を設置するまでは人里はなれた寒村だったと想像されます。
積翠寺の起源も信虎が要害山に詰め城を築いた１５１９年に信虎の寄進で出来た寺のようです。
寺伝に依りますとその時期は積翠寺の中興の祖だと言われていて起源はもっと古い時期とされていますが、、、人が居ない寒村にお寺の用向きは無かったのではないか邪推するのですが。

むしろ大蔵経寺山ルートが深草観音へのメインルートではなかったかと推測します。
深草観音（岩堂観音）は奈良時代の行基？にその起源発祥があったと言い伝えされていたと思いますが時代は下がって（文化文政の時期に）境内に沢山寄進されて置かれた寄進観音様の年代から文化文政の時代のものが多くその時代が観音霊場の巡礼としては最も盛んだった事が伺えます。
ただし文化文政の江戸時代は完全に甲府城を中心とした城下町の発達によりこれ等の観音様の寄進は地元、積翠寺の住人であったり城下の魚町の旦那衆による寄進であることがわかります。

信仰への巡礼の旅。
伊勢参りや四国霊場八十八箇所巡り、富士登山、月山登山、北陸の立山登山、日光東照宮、板東観音霊場巡り、等などこれが江戸時代の信仰のための巡礼は観光旅行でもあり国外に出る行き先と観光切符を意味していました。
名主叉は菩提寺に手形で身元を保証してもらって巡礼の旅に出ました。
野次さん北さんの東海道膝栗毛はお江戸からのお伊勢参りを描いています。
あれは殆ど信仰を口実にした観光旅行ですね。

山道の殆どは樹木のトンネルの中を進みます。針葉樹の森のトンネルは昼尚暗く、落葉樹の森は黄緑のステンドガラスの中を進みます。
鶯よりも春蝉が沢山鳴いています。
時々、太陽が差し込む疎林であったり、松くい虫にやられて枯れてしまって伐採された赤松の元の林があります。
そのような太陽が差し込む疎林にはタカネバラの花が咲き木苺や００が実ります。
野次さん北さんの時代も宿場町を離れる箱根八里などはこんな按配だったのではないでしょうか。

当世の巡礼の旅です。</description>
		<dc:date>2010-08-22T07:42:00+09:00</dc:date>
		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
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		<dc:publisher>山梨学院大学</dc:publisher>
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	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/091531185210.html">
		<title>桑と苺と００</title>
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		<description>山の幸

大蔵経寺山（山梨百名山１２）

平成２１年６月８日（月）
甲府市上積翠寺の要害山登山口に野生化したと思われる桑があります。
桑の実が熟し始めていました。懐かしい味です。
山ノ神の祠に手を合わせて出発です。

今日は要害山から岩堂峠を越えて鹿穴から尾根を東進し大蔵経寺山で下山しました。
途中に、イチゴと００もあり食べ歩きしました。
００は甘くてとても美味しいです。グミではありません。
００の名前を忘れました。思い出せません。
今日は一日、山中で誰にも会いませんでした。

山中では修験者になった気分です。
宮本武蔵を追って長い旅をしたオツウさんはさぞ、臭かったでしょうな。


下山した先は石和駅です。すぐ近くです。電車に乗って帰ってきました。
料金は甲府駅北口から積翠寺までバス３００円、石和駅から甲府駅まで１９０円。昼の食事は家内が作ってくれたおにぎり一つにペットボトルに詰めた５００ｃｃの水。

物部神社と大蔵経寺に御参りしてきました。
時間が足りなくて、今回は御室山、山梨岡神社、寺本廃寺、積石塚古墳には行けませんでした。
行く度に新しい発見があります。


♪夕焼け小焼けの赤とんぼ、、、、、♭山の畑で桑の実を子篭に摘んだは幻か。♪</description>
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		<dc:subject>四季・レジャー</dc:subject>
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	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/091322194224.html">
		<title>大蔵教寺山（山梨百名山１２）</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/091322194224.html</link>
		<description>石和で北東の方角？一番近い山並みを眺めると、大きくコンクリートで補修した崖のある山が大蔵教寺山（標高７１５㍍）です。
石切り場跡をコンクリートで崖崩れ防止補修したものです。
その麓に大蔵経寺山の名前の元になった大蔵経寺があり、並んで物部神社があり、その神社境内から登山口があります。物部神社の附属のお寺が大蔵経寺です。
大蔵教寺とは正式には松本山大蔵経寺ですがこの寺は奈良時代からあって、行基が開山したと伝えられる青獅松本寺です。
時代は随分下がりますが１３７０年、時の甲斐の守護であった武田信成が寺院を造営し寄進します。
足利義満の子（庶子）観道上人を講じてこの寺を中興の祖とします。庶子とは正室以外が生んだ子で父が認知した子。
その時に大蔵経を持ち込んだ教典をお宝とした真言宗智積派の寺としました。
大蔵経とは朝鮮半島の高句麗で１０１１年契丹の侵略、及び１２３６年元の侵略に遭い沢山の教典が消失したので高句麗で新たに再編集して編纂した教典を大蔵経と称する。その大蔵経が日本の室町時代に日本にもたらされて東京の増上寺や大谷派に齎された。
その大蔵教典を持つ寺という意味です。

しかし、この大蔵経寺山、大蔵経寺の興味津々の由来はそんな新しい戦国時代時代にあるのはなく律令国家制定前後の飛鳥時代や奈良時代に遡ります。

前後しますが、今回甲府市の上積翠寺から山の中を歩きこの大蔵経寺山に出てそこから下って物部神社及び大蔵経寺に下山して来ました。

この大蔵経寺山には積石塚古墳、物部神社、そしてすぐ近くの御室山、山梨岡神社、鎮目（寺本廃寺）そして長谷寺を含めて大変古い時代に栄えた遺蹟が残る史跡です。
物部神社は後年、何かの都合で御室山の斎場（墓場）を現在の物部神社に移しています。物部神社は神社なのに沢山の墓があります。古式の斎場を伝えていると思います。

山梨県の古墳時代以降の古代律令国家前後からの歴史の要の地です。
勝沼大善寺が祭礼として鳥居の山焼きを行ないます。
それに対向して長谷寺（古代の斎場）を応援した山梨岡神社（大蔵経寺派）は笈焼の行事を現在に伝えています。
恐らく勝沼の大善寺が新興勢力として仏教を持ち込んだ時期に、旧勢力であった物部氏の非仏教勢力との間に諍いがあったと想像できます。
それが、大善寺側としては敵方の神社の象徴である鳥居を焼失させた。即ち神社を焼き討ちにした。叉物部氏側である山岡神社では坊主の背負う笈（おい）を焼いたとする戦勝行事若しくは戦勝祈願が今に残っているように思う。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと同じように坊主の背負う笈まで憎かったのだと思う。
両者間で激しい勢力争いがあったと想像します。


御室山、山梨岡神社は明治時代初年、山梨県の県名の命名の元となった「やまなし」の語源（山無媛）であるといわれています。
直接的には山梨郡の郡名を採用した形ですがその郡名はここ山梨岡神社から出ている訳です。山梨岡神社境内には巨摩郡と山梨郡を分けたとする基準石（郡石）が残っています。岡とは山の意味です。
野生の山梨（ズミの仲間）の木が転じたものとする説もあるそうですが、私はその説は採りません。
そして八代郡の堺は笛吹川であり八代郡の市川等は富士川ですが、巨摩郡の境界は大蔵経寺山の稜線及び延長線上の尾根で仕切られています。稜線は直線ではなくて複雑に曲がっています。多良峠付近まで複雑な稜線を郡界としています。驚く事は律令時代の古代国家が出来て「甲斐の国」以来、現在に至り同じ境界線で仕切られている事です。
甲府盆地の基準点は青沼であり石和です。

大蔵経寺山（大蔵経寺の山林で寺社領）を下山途中、高台に御室山があります。その御室山は物部氏一族の神を祭り叉物部氏一族の奉斎（斎場）する場であった。その祭礼の行事が生まれて、祭神として山無媛=やまなし（応神天皇のお妃になった人）を祀るようになった。その御室山の里宮が山梨岡神社です。
物部氏一族は天皇家と絡んで大和政権の樹立に殊勲を立てた。大和政権が、叉物部氏は大和奈良から東国に勢力を拡大してゆく中で、その守護神として山無媛（やまなし）=律令国家の朝廷の錦の御旗
を象徴的に冠としたと思われます。

ですから静岡県袋井市の太田川上流にも山名神社があり月夜里（やまなし）の地名が残っています。、叉東国の千葉県にも同様な地名や神社が残っています。

この大蔵経寺は武田家の歴代の戦勝祈願の場所であった事はいうまでもありませんが、徳川家康も参拝していますし、更に江戸時代の勤番制時代に毎年二回だったと思いますが平和を祈願祈祷する幕府恒例行事に指定された寺でありました。

伽藍は元禄年間、更に文化年間に消失していて現在の建物は天保から安政時代（１８３０～１９５０年）に建てられたものです。

この項が長くなりました。語りつくせない物語が沢山あります。
枝葉は此れからの兜山の山梨百名山などで紹介します。

山を歩く、山に登るとは自然を眺める事もありますが、人間及び人間社会を眺める事でもあります。
仏教寺院には必ず００山００寺と山名が付きます。
仏教や神教は山とは切り離してその修行の場が考えられないからです。

後者の社会学的人間、人間社会ウオッチングは古来から仏教や神教が行なってきたアプローチです。
事象に距離を置いて観察してみたり、利害関係の外に身を置く事によって始めて見えざるものが見えたりします。構造を見る場合、余所者の視線が必要なわけです。

是非一度は積翠寺から山中を通って大蔵経寺山へ、そして物部神社、大蔵経寺、山梨岡神社、寺本廃寺へ巡礼の旅をして下さい。
寺院仏閣神社とは、そしてその他の史跡もそうですが、その時代に後世まで語り伝えたい、残したいと真剣に願った記念すべきメモリアルホールなのです。
これから先の時代は解かりませんが今までは寺院仏閣や神社でしか心を保存できなかったのです。勢者必衰の理を表すです。
宗派やその他の好き嫌いを除外して尚、後世に語り伝えたいと祈願する種族や血液保存の本能に裏付けられたぎりぎりの記念碑（メモリアルホール）なのです。
そこのところをどうぞ良しなにご理解くだされば幸いです。

その事は「観光の原点はお寺や神社参りに始まります。」
何時の時代もお寺や神社が観光拠点であることには変わらないでしょう。
どのように山梨県民が山梨の歴史をわかりやすく物語りに出来るか？自分のものとすることが出来るか？その組織的な補助の役割分担と手法や程度等の組織とソフトがこれから問われているのだと思います。

写真２は大蔵経寺の境内から大蔵経山を写したもので石切り場のコンクリート補修が見えています。


写真３は昨年の１２月２８日から１０日間に渡り山火事の遭った大蔵経山の尾根付近の赤松林です。</description>
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		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
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		<dc:publisher>山梨学院大学</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/030747115410.html">
		<title>旧芦川村のスズラン（山梨百名山釈迦が岳１１）</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/030747115410.html</link>
		<description>笛吹市芦川地区のスズラン

山梨百名山、釈迦岳（１６４１ｍ）に登るつもりで家を出ましたが雷に怯えて登り口のスズラン見物だけになってしまいました。
釈迦が岳は甲府盆地から良く見えます。尖がっていてインドの仏舎利塔に似ているからそのような名前が着いたのだろうと思います。
頂上に二体の石仏が鎮座していますが名前の後添えだと思う。
面白いのは近くに神座山（黒打の頭）があります。どちらが先か判りませんが類を呼んだのだろうと思います。
私の推測では若彦街道（鳥坂峠、大石峠）及び日向峠（ドンベイ峠とセットの新道峠）を往来する旅人にとってすぐ近くの釈迦が岳は大変インパクトの強い存在であり、あの山の近くの峠を越えて旅をする目安として地元でも説明用に必要だったでしょう。



5月２９日から31日まではスズラン祭と名を売って芦川支所から送迎バスなどが出ていましたが、混雑を避けて6月1日に行きました。
お目当てはスズラン畑（畑といっても人工的に耕作している訳ではありません。自然のなせる業です。）からセットで登る70分の釈迦が岳です。
しかし、断続的に雨が降って少し雷が鳴って、、、、叉雷雨が来そうで。家内と一緒でしたが家内が先に戦意消失。私もそうかなと、思ってしまいました。

その昔７月頃の梅雨の季節にテレビなどで北海道のスズランが東京、上野駅界隈で道行く人にプレゼントされる映像を見てきました。
北海道へ観光客の誘致運動風景でした。
そしてそんな残像に憧れて梅雨の晴れ間に長野県の富士見の入笠山に広い範囲の密集したスズランの群生地があり登山ハイキングが流行りました。

最近はあまりスズラン入笠山登山は聞かなくなりました。私の狭い現状認識の無さから来る偏見でしょうか。現在もスズランの群生は健在のようです。

替わって近間で浮上したのが山梨県の芦川のスズランでした。
もう20年以上前のことでしょうか。
その頃何度となく小さい子供を連れて家族で出掛けたものです。
ですが、スズランは丈が小さいので子供には今一インパクトが少なくニ三度で行かなくなってしまいました。


その芦川のスズランへ本当に久しぶりに行って来ました。
白樺林の半日影の林床としてスズランが群生しています。

ここ旧芦川村は黒岳、節刀ケ岳、釈迦が岳、春日山、滝戸山の五座の山梨百名山に取り囲まれています。
馬蹄形に取り囲まれた渓谷の大まかに説明すれば古い河川敷部分に集落が点在しています。渓谷の深さは比較的浅く、沢沿いに段々畑と集落が並んでいます。
段々畑のコンニャクイモが有名です。
甲府盆地側及び反対側の富士山側には幾つもの峠があります。中でも若彦往還が渓谷を横断して鳥坂峠、河口湖側には大石峠があり交通の要所として他国と結んでいます。

峠を越える。

山を重機で掘削して道路をつける。路肩をコンクリートで補強する。更に隧道を掘ってトンネルを造り自動車で移動する。
これはほんの最近の出来事です。
峠を越えて分水嶺を分けた他国に至るとはどんな按配だったか。
馬の背中に乗せられた嫁子は二度と故里の地を踏む事もかなわなかった時代が長くあっただろう。
是非一度ならずも何度か体験してみては。
古来からの文学は解からない、歴史小説は理解出来ない。イメージが湧かない。文化を失い漂流する日本人。

ここ芦川にはそんな体験学習の場が備わっています。</description>
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		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
		<dc:subject>イベント・祭</dc:subject>
		<dc:publisher>山梨学院大学</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/030620062836.html">
		<title>山梨百名山要害山１０</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/06/030620062836.html</link>
		<description>山梨百名山の要害山（標高780㍍）は躑躅ガ崎の館の北方３kmの地で比高２５０ｍの山です。現在では登山道が整備されていて歩きやすく30分ほどで登れます。

この山は武田信玄時代の山城として知られていて国の史跡に指定されています。
築城以来何度も手が入り石積みなどの多くは後世のものである可能性も高いそうです。幾つもの門の跡や枡形虎口、クランク状の道、竪土塁、腰曲輪、竪堀、曲輪、土塁、井戸（諏訪水）、谷川への水汲みへの道、根古屋村落などの施設が残っていますが恐らく信虎、信玄、勝頼そして家康の時期に至る戦国時代後期の累積した改築の遺構だろうと言われています。
この山城は1519年に武田信虎が川田から相川扇状地の躑躅ガ崎の館に築城し引越して来ます。そして翌年に信虎が要害山城を築城したことが判っています。高白斎記に永正17年（1520年）に「積翠寺丸山をお城に取り立てられ、普請始まる。」とあります。
翌年の大永元年（1521年）駿河の今川家の家臣だった福島正成は自立して勢力の拡大を図り甲斐国に攻め込んだ。武田信虎は躑躅ガ崎の館を捨ててこの要害山城に篭城した。結局、福島正成は要害山を攻め落とす事が出来ずに敗退した。それが飯田河原の戦いです。湯村山城の事も記録に出てきます。
この時に身重の大井夫人は麓の積翠寺に避難して子供を産んだとも積翠寺の記録には書かれているようですが、要害山城に逃げ込み出産したとも甲陽軍鑑では書かれているようです。その子とは武田晴信（信玄）です。
天正３年（157５年）武田勝頼は長篠の戦いで大敗しますがその翌年に帯名の郷の村役人に人夫督促状を発給しています。
要害山城の修築を命じたものです。しかし勝頼は躑躅ガ崎の館及び要害山城を捨てて新府城に移ることになります。1582年のことです。


写真1は要害山城の主郭部分です。今の時期新緑でとても美しい。鶯がしきりに鳴いています。
周囲を高土塁を築いて侵入を拒んでいます。裏門を出れば複数の堀切や竪堀があり尾根を抜けて多良峠から山梨市方面へ、岩堂峠から春日井方面へ抜ける逃げ道が当時から備えられていたと思われます。
春日井、石和、更に山梨市方面は武田家の故里であり沢山の縁の寺院があります。落ち延びる時には最適の立地条件に築城したものと私は推測しています。
躑躅ガ崎の館と要害山それから近代的な甲府城をセットにしたツアーを組むと素晴らしいと思う。それから勝頼の築いた新府城を入れたら一泊二日のコースが出来上がります。
山梨百名山でしかも武田の築城技術、中世の戦いから近世への戦争の仕方や築城の変遷等など語り口は豊富にあります。

写真2は門の跡です。内側には三方を土塁で囲んだ虎口が築かれていて、道は直角に曲がっています。

写真３は要害山城の麓の積翠寺です。臨済宗妙心寺派です。
ここで信玄が生まれて産湯を浸かったといわれている井戸が残っています。

平成21年6月2日</description>
		<dc:date>2010-08-22T07:42:00+09:00</dc:date>
		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
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		<dc:publisher>山梨学院大学</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/310608072445.html">
		<title>道標</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/310608072445.html</link>
		<description>古いと思われる道標がありました。

マツダランプのロゴは東芝が1910年から1962年まで使った商標だと判りました。1962年は昭和37年です。
ですから昭和37年以前のもので立てられてから47年以上経つ事が判りました。個人的なことですが昭和37年は私の二十歳の時で青春に突入する時期でした。

写真1と2は下部の毛無山山中で、写真3は昨年1月に歩いた甲府市の要害山から岩堂峠の山道です。

商標はとっくに東芝ランプに変更になっているのに、山の中ではそれをとがめる人も居ないし道標としての役目はキッチリこなしていますので現在尚、健在なのでしょう。

この道標はホーロー引きの鉄板でその当時は看板や広告に多く使われた材質だった。
今でも食器や鍋などに使われています。
鉄板に鮮やかな顔料を塗装し焼付けて更にガラスで皮膜を覆い焼き付けたものです。
表面のガラス部分が割れたり皹が入らない限り焼き付けられた顔料や鉄は酸化することなく酸やアルカリ性等の化学変化に強く殆ど経時変化がないと思います。

47年前の道標が今尚、鮮やかに残ってその役目を果たしている。
変遷の激しい現代にあってスローライフで頑張っている。
素晴らしい文化財だと思う。
風雨や寒暖に耐えてこれほど長く耐久性のある材質は石に匹敵すると思われます。アルミサッシだって自動車の塗装だって結局はガラス質の粉を塗装し焼き付けたものだろう。

このマツダランプの道標設置には悲しい事実が秘められている事が調べてゆく内に判りました。
それは昭和25年11月4日上越国境の谷川岳～三国峠へ縦走していた三井鉱山と東芝マツダパーテーがみぞれの悪条件もあって疲労凍死で5人が亡くなる事故が発生した。
その時、平標岳の道標は誰かの悪戯か？差し替えられてあった様でコースの現在位置を見失い時間配分を間違えるトラブル発生の要因となったらしい。（正確性、詳細は検索出来ませんでした。）
その事故の再発防止として東芝の山岳部の有志がマツダランプの道標を広い範囲で取り付ける社会運動を展開したらしい。

尚、余談ですが「マツダ」とはゾロアスター教の最高神であるアフラ、マズダ（AHURA MAZDA）で「光の神」「智恵ある神」だそうです。
自動車の東洋工業マツダも同じ語源らしい。</description>
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		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
		<dc:subject>歴史文化産業</dc:subject>
		<dc:publisher>山梨学院大学</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/302159035352.html">
		<title>太宰治展とハナショウブ</title>
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		<description>今、県立文学館で太宰治展をしています。
生誕100年だそうです。
6月28日までです。

私は一冊も太宰作品を読んでいません。
だから作品については全く未知です。論説や解説や感想を話すほどの自信がありません。
会場で山梨を舞台にした太宰治作品（妙）をもらいました。A3に表裏びっしり書いてあります。叉太宰治の甲府ゆかりの地、散歩マップをもらいました。
この二つを読めば山梨での最低の知識を得ることになりそうです。
団一夫の「火宅の人」を読んでいるので団一夫との交友関係を拾い読みした。
一回りして30分ほどで出てきてしまいました。
人気があるんですね。
沢山の人が来ていました。

裏庭の日本庭園にハナショウブが咲いていました。</description>
		<dc:date>2010-08-22T07:42:00+09:00</dc:date>
		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
		<dc:subject>四季・レジャー</dc:subject>
		<dc:publisher>山梨学院大学</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/291423172535.html">
		<title>サクラ</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/291423172535.html</link>
		<description>サクラ

富士山に近い天子山塊の毛無山（１９６４ｍ）の頂上付近で出会った野生種のサクラです。
天子山塊は南北に本栖湖畔の竜ヶ岳から山脈が連なり雨ケ岳、毛無山、長者ケ岳、天子ケ岳、白木岳と南下して繋がり太平洋の近くの静岡県で没する。

このサクラは富士桜、叉の名は豆桜と言います。

富士山や箱根などの中部地溝帯付近の山岳地帯に生えているサクラです。
火山性の痩せ地でも亜高山帯にでも生育来るように進化したらしい。
主幹が立たずに株立ちしています。
積雪は多くないので雪の影響ではないと思います。
このような性質を持ったサクラだと思います。
北海道からアリュウシャン列島に掛けてのサクラで千島桜がありますが同じような樹性をしています。
北海道中標津で見てきました。

ここ毛無山の尾根は東側が静岡県で朝霧高原です。標高６００から９００メートルもあります。西側が山梨県の富士川に沿った複雑な山塊です。
駿河湾から吹き抜けて来る風は富士山の裾野の草原台地や樹海を北上してきます。
朝霧高原で冷却されてこの毛無山の頂上付近で西側の停滞した山梨県側の空気とぶつかり霧雨が発生しやすい。その霧雨の発生しやすく風が強く体感温度の低い尾根付近にこのサクラの木が並んでいます。

北海道と本州の中部山岳地帯と距離は離れていますが、DNA鑑定では千島桜と近い親類なのかもしれません。</description>
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		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
		<dc:subject>四季・レジャー</dc:subject>
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	</item>
	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/280546062710.html">
		<title>湯の奥村</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/280546062710.html</link>
		<description>戦国の時代から続く金堀衆の里の村落だった。
湯の奥（中山）金山採掘場から下って来て耕作の出来る富士川流域まで１０キロ以上あり、その中間の山の中の傾斜地に張り付くようにして小さな村落があります。

その50戸程の村落の中心的門西家にはこの地を治めた代官や関守としての古文書が残っているそうです。はるか戦国の時代から続く家系であり、村落だそうだ。
現在の当主は１７代目だそうだ。
関守としての仕事は毛無山を越えて富士山側に下ればそこは静岡県の朝霧高原の麓村落であり、街道になっていたのかと思う。

村落の一番高台に神社がありました。
案内板に金山衆の信仰の守り神だったと記されています。
きっと昔は湯の奥（中山）金山の採掘地、精錬場の村落現場にも神社があったと思いますが、江戸時代に金の産出がなくなり採掘精錬現場の村落は廃村となり神社も消滅してしまったものと思う。
採掘場へ登る登山口には言い伝えに依りますと金堀衆の守護神である金山神社が七社あったと書かれています。
現在では里宮としてこの集落に鎮座するのみになったものと思います。

採掘現場、精錬所跡の村落からは安土地桃山時代の瀬戸物類が出土しているそうです。

中世から営まれて来た村落を見てきました。
登山とは山を生業にする里山を見学すると共に山辺の人々の住まい方をも垣間見させて頂くことにもなります。
里山は生産の場であり、生活の場でした。</description>
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		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
		<dc:subject>歴史文化産業</dc:subject>
		<dc:publisher>山梨学院大学</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/271857210313.html">
		<title>山梨百名山毛無山９</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/271857210313.html</link>
		<description>天子が岳山塊の毛無山（１９６４ｍ）です。

身延町（旧下部町下部温泉の奥）から登るこの山は途中に金山遺蹟があります。
戦国時代の武田信玄の頃から江戸時代初期に掛けて大量の金が産出した事で知られています。
武田の金は黒川金山とここ、湯の奥（中山）金山が主力でした。
付近の村落や寺院には当時の金山に関した文章が沢山残っているそうです。
林道途中の湯の奥村には国の重要文化財に指定されている門西家住宅があり武田の頃からここで金山奉行などをしてきた家系だそうです。
裏に現在の当主の住宅があり伺いますと１７代目だそうです。
大変元気なご老人でした。

登山を開始して１時間の途中の金山遺蹟を散策しました。
金山遺蹟は国の史跡に指定されています。
女郎屋敷とか大名屋敷と地元では語り継がれている場所もあり看板がありました。段々に着けられた沢山のテラス（住宅や作業場の平坦地）を見てきました。
叉、鉱石を焼いて脆くするための炉がはっきり残っていました。
１時間近く遺蹟周辺で観察しました。

但し、穿り返したり、石を動かしたり、石を持ち出したりの荒らす行為は禁止させています。

山梨県と静岡県の県境の尾根は地蔵峠になっています。
東側が静岡県、西側が山梨県です。
ここからが苦しい急坂を登ります。
頂上ではその場所だけ東側が開けていて富士山が見られるようになっています。あいにく霧が立ち込めて富士山が見られませんでした。
東側の麓は静岡県の朝霧高原です。
頂上には一等三角点がありました。

株立ちした桜が咲いていました。
途中の尾根には「虫狩り」=「大亀の木」の白い花も咲いていました。
霧雨で濡れて寒くなって下山開始しました。
平成２１年５月２７日</description>
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		<dc:publisher>山梨学院大学</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/261848213127.html">
		<title>福楼（甲斐善光寺御開帳）</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/261848213127.html</link>
		<description>甲斐善光寺の境内で巣立ち間近の福楼（フクロウ）の兄弟が居ます。
現在、甲斐善光寺は御開帳ですがあと数日の5月31日で終ります。

私は未だ当分時間があると思っていましたが気がつくと、もう日にちが無くて5月25日に慌てて行って来ました。
善光寺御開帳の戒壇めぐりや宝物殿の見学も終わり、境内に出ました。
境内の裏側で数人のカメラマンが500ミリの望遠レンズを装着した一眼レフタイプのカメラを三脚に立てて松ノ木のてっぺんから下1メートルを狙っています。
聞きますと巣立ち前のフクロウの兄弟がいるのだそうです。

私はコンパクトデジカメで精一杯ズーム望遠で狙って手持ちで撮影しました。写真1です。

前立阿弥陀如来三尊像を見れた事よりもフクロウの巣立ち前の兄弟が見れたことに幸せを感じました。
脚を使って取材に出掛ける。偶然とは言え思わぬ出会いがあります。
これからも脚を使って（現場主義で）「わいわいねっと」　を続けようと思います。

追伸：善光寺如来は阿弥陀如来三尊像です。
この仏様が日本伝来で一番古い仏像と言う事になるのでしょうか。日本書紀では西暦552年が仏教伝来だと教えられています。（元興寺縁起では538年）その時の仏像は釈迦如来だとも聞いています。
聖武天皇が752年東大寺の大仏様を建立したそうですがあの仏様は、じるしゃな佛だそうです。華厳宗と言っています。
釈迦如来ではありません。叉薬師如来でも阿弥陀如来でもありません。
もう少し後世になりますと真言密教では、じるしゃな佛を大日如来と言うそうです。この時期に（真言）密教の混じった雑密教が国教として導入されたことになります。
聖武天皇の当初は詳しくは解からなかったみたいですね。

後世の鎌倉仏教の浄土宗と浄土真宗は阿弥陀如来をご本尊としています。
その阿弥陀如来が552年に限りなく近くの時期に難波（大阪）に入って来た事になるのだろうか。そして曽我氏と物のべしが仏教導入で対立する。難波の瀬戸に捨てられます。それを拾い上げて信州に持ち帰ったのが本田善光だということになっています。

日蓮宗の日蓮はこの阿弥陀如来をご本尊とする浄土宗若しくは教祖の法然を激しく攻撃します。

日蓮宗は法華経を唯一の経典としています。
数多くある教典の中で法華経は一番釈迦生存の時期に近い経だと言われています。
即ち釈迦のオリジナル性が高いと主張します。
しかし中世に書かれた写経や経筒で発見される経は般若心経ではなくて、法華経だそうですが、日蓮宗の法華経ではなく、別な古いタイプの法華経だそうですね。既に奈良時代に入っていた。詳しくは知りません。何方か教えて下さい。
そうした法華経の翻訳の仕方の議論を聞いたことがありません。
法華経もその翻訳の仕方、解釈の仕方が問題視されなければならないのかもしれません。
キリスト教もユダヤ教の教祖もイスラム教も同じ人物が教祖だそうですね。

日本伝来期から混乱状態で仏教が導入されたのかなと思います。
自分の宗教の正当性を主張する。
一神教のキリスト教やイスラムの世界ほどではないけれども宗教はやはり難解だ。

唯一つ新しい知識を得ることが出来ました。甲斐善光寺は浄土宗だそうです。長野善光寺は宗派はないと聞いていましたので、大変びっくりしました。阿弥陀三尊像を信仰する。極めて自然なように思いました。


フクロウに乾杯です。
私の甲斐善光寺御開帳が終りました。
今度も私の仏教に対する御開帳はお預けです。</description>
		<dc:date>2010-08-22T07:42:00+09:00</dc:date>
		<dc:creator>山梨学院大学</dc:creator>
		<dc:subject>歴史文化産業</dc:subject>
		<dc:publisher>山梨学院大学</dc:publisher>
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	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/251712183250.html">
		<title>志摩の里を歩く（北山野道）</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/251712183250.html</link>
		<description>志摩の里を歩いてきました。
湯村付近を志摩の里と言います。
甲陽軍鑑に信玄は志摩の里（湯村）で湯治をしたと書かれているそうです。

時代を少し遡りますと武田信虎が荒川の飯田河原の戦いで本陣を敷いた地点が千塚八幡神社だそうです。写真３が千塚八幡神社です。
この戦いで信虎は駿河の今川勢の福島正成に大勝して武田同族団をピラミッド状に纏め上げる結果となりました。
その時に信虎夫人である大井夫人は躑躅ガ崎の館が危ないと要害山に逃げてそこで産んだ子供が晴信です。時に大永元年（1521年）信虎が躑躅ガ崎の館を築いて3年目、晴信が誕生した年です。


甲府市教育委員会は甲府市の北山野道として散策路を指定し案内しています。
今回はその案内板に従い志摩の里巡りをしました。
他に板垣の里、小松の里、表門の里が用意されています。
写真1を参照。

上代は古墳、歴史時代には神社と仏閣しか世に伝わらないのだと解かりました。
人は生きている間だけなのですね。

志摩の里をざっと一回りして３時間のコースです。
丁寧に廻れば４時間から５時間コースかな。
観光スポットには教育委員会で解説板があり分り易く説明がしてあります。
その説明板を頼りに次々と歩いて廻ります。
さすがは甲府市です。

県内の人には武田関係などの興味深く丁度良い散策コースが準備されています。県外の人には？？　外国人には？？？？

平成21年5月23日午後、暑かった。</description>
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	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/241803062515.html">
		<title>山梨県庁を観光の目玉に</title>
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		<description>宮崎県知事はパーホマンスで宮崎県庁を観光資源に変えた。
売り物は県知事自身だけれどもその場を県庁に振った。
山梨県知事横内正明氏にそれを望むのは無理だ。あのカメラから目線を外して早口に喋るスタイルは人気が出ません。
官僚出身者だから仕方がない。

山梨県庁自身が観光の活性化の資源そのものにならないかと考えて、そこで考えたのが山梨県庁の建物や庭です。
そもそも県庁敷地内は甲府城の城内だった。しかしその遺構は現在目に触れる姿では保存されていないが柳沢吉保、吉里時代からの遺構地割が解かっています。
隣の甲府城と合わせて甲府城として見学すれば広い臨床感が満喫できるだろう。

県庁の建物は南側別館が昭和5年の物だ。観光企画課、観光振興課が入っている建物は昔は初代県立図書館でこれも昭和5年だ。議会議事堂が昭和9年だ。
明治以降の建築物は近代化遺産と言い、骨董価値が出てきましたが日本のその時代を代表する建造物としてはやや個性が少なくインパクトが低い感じがする。
それは明治末期の大水害の後遺症で貧乏県なため機能性だけを重視したのではないかと思う。
しかしそれらの因果を含めて明治からの昭和初期に掛けての山梨県の貴重な近代遺産であり観光の対象になるだろう。

次に目を付けたのが「白鳳の庭」です。
舞鶴陸橋に通ずる舞鶴通りに面した県庁の庭に日本庭園があるのはご存知だと思う。
その庭園の枯山水？は「白鳳の庭」と名前が付いています。
この白鳳の庭は天野久県政時代に野呂川総合開発事業を手がけましたがその記念モニュメントです。
野呂川開発は昭和29年から十数年の歳月を掛けた山梨県史に残る事業だった。
その野呂川総合開発事業を記念して野呂川渓谷の岩石を運び込み県庁内に野呂川渓谷を造ったものなのだ。

歴史こそ戦後ですが、山梨県史にとって画期的な事業です。
叉、山梨県知事天野久自身が初めて県内の人であり、山梨県の政治や行政はは県内の人材で行なうことを県民が決めた画期的な県知事誕生だった。
戦後の混乱期を抜け出した昭和26年、それまでの長い間の国家内務省指定の官僚による県政から脱却して山梨県人が始めて自前の県政を目指した最初の門出が昭和26年から16年間続く天野久県政だった。

明治維新後の明治6年から14年間県知事として振舞った藤村紫朗県令。
この二人に共通した課題は「貧乏県脱却」だった。
そして二人の県知事が山梨県に与えた影響は著しい。

天野久県知事は野呂川総合開発事業即ち電源開発と林道開発に挑戦した。
発電所が運転開始して急速に県の財政は改善して行った。
叉原八郷と呼ばれらた南アルプス市の灌漑用水もこの野呂川総合開発事業の一環として南アルプス市の源に大きな井戸を掘削し水源を確保し長年の旱魃地域の悲願を達成した。

この野呂川総合開発事業は天野県政の象徴で新笹子隧道（トンネル）の掘削にも挑戦した。昭和32年の開通により新しい時代の自動車交通に対応した首都圏への農産物移出の基になった。
しかし大型の開発は結果として中央からの財源を引き出す事に繋がり事業が完成したが、その後の県政は次第に中央依存型の開発重視、利益誘導、中央直結型県政へと繋がって行った。

高度経済成長期に繋がる中央と地方のその後の政治や行政の体質を知る上でその出発点になったのは天野久県政と野呂川総合開発事業だと思います。
そうした歴史的な文化遺産資源としてそろそろ、この辺りまでは歴史の共通認識として検証し語り伝えて良い時代になってきているのではないかと思う。

写真3　現在南側別館で警察や教育委員会が入っている建物。
　　　　昭和5年建設。当時は県庁本館。</description>
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	<item rdf:about="http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/211719181414.html">
		<title>狛犬さん ワン</title>
		<link>http://yy-net.org/blog/02058/blog/archive/2009/05/211719181414.html</link>
		<description>狛犬さんの起源は中国で皇帝が就務する部屋の四隅に皇帝を守護する為に持ち込まれて魔除けとして置かれていたものらしい。
日本には奈良時代に既に持ち込まれていて正倉院の裏の000堂には木製の小さな置物用のものが現存するらしい。
それ以来、神社には狛犬さんとして神社の本殿を守護するために参道に石造で置かれ、一方寺院仏閣では仁王さんや寺の桁の守り神として広く使われようになった。
鬼面瓦なども転じたものかもしれませんね。
沖縄ではシーサーとか言ったかな。屋根や門柱に乗っかっているようです。

狛犬さんのモデルは架空の動物であったり、犬のチンがモデルであるとかその道のマニアは研究熱心です。更にどちらかには頭の上に角があるそうですね。

写真１と2は裏の五十嵐さんちのポチです。
既に二度三度と私のブログに登場しています。
この犬も番犬です。五十嵐さんちを守護しているのです。
邪悪なものを寄せ付けません。狛犬さんと同じなのです。
しかし善良な市民には実に優しい目をしています。
恐い顔をしていれば良い訳ではありません。
ましてや人を見下し威圧するのが本来の役目でもありません。

偶像崇拝と申します。作者の邪悪な考えや依頼したスポンサーの邪な考えで像が勝手に一人歩きをします。
そうした像は普遍性がありません。

本来の役目をキチンとわきまえて像に刻まれてこそ名作といえます。
ポチが狛犬さんの原型です。ポチの善悪を見抜く頭脳が大切なのです。
そうした奥深い慈悲に満ちた頭脳と心眼を表現しているのが国宝クラスの仏像です。古いからでは、由緒が正しいからではあってはいけません。
狛犬さんもピンからキリまであります。
ヤヤ定型化、類型化、抽象化していますが。

野仏の素朴さと美しさに共通するものです。

ポチの顔をとくとご覧あれ。
私はそのように考えます。

写真3は美和神社の狛犬さんです。</description>
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